■シリーズ初発の「
「量的変化の質的転化」考1」でとりあげた、、経済評論家の
勝間和代氏の
読書論を、むしかえす。
■そこでも紹介したとおり、
勝間氏は「
量が勝負と、ひたすらインプットする」「
インプットを繰り返していくと、それが一定量を超えた瞬間、ある日突然わかるように」なる*から、、「
大量の情報を頭に入れることで、質への転換を加速させる」**という
乱読主義をすすめる。
* 『無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法』ディスカヴァー・トゥエンティワン,pp.89-90
** 『効率が10倍アップする新・知的生産術』ダイヤモンド社,pp.164-5■前々回は、「
乱読をささえるための、方法論的にも整備された体系的速読法があってのことらしいので、そういった技術的な面もここではたちいらない」と、ながしておいたが、
勝間氏には、「
フォトリーディング」をはじめとした体系的
速読法と、月間50〜100冊(10〜15万円)かって5冊程度しかてもとにのこさない(あとは、ブックオフにうるか図書館に寄贈なのだとか)という、きまえのよい図書費予算(収納によってかかる住居費節約を重視)、
熟読しようとしても実践的な血肉となる吸収にむすびつかないから、全体像・筆者の意図などをおおざっぱに把握し無意識のうちに蓄積しておく(気になったり、よみかえしたくなったら、かいなおす)といった、独特の
読書哲学が一貫しているのである。■
勝間氏は、紙媒体の
良書がもっとも情報集積の効率がよいと断言しているので、
乱読してよいという理由は、ぞんざいにあつかっていい程度の質しか書籍がそなえていないという位置づけではない。むしろ、千円程度のやすでのベストセラーは「やすものがいの、ぜにうしない」の典型で***、2000円をこえる、ハードカバーの
良書こそ、10年単位の準備(損得ぬきで、筆者の自己実現が結集している)と編集者らによる厳選という、非常にめぐまれた良質の情報が2〜3千円台でてにはいり(飲み代や数時間の時給分)、しかも一覧性・携帯性などにとんでいると、絶賛しているぐらいだ。■上質の
良書こそ、情報収集の宝庫だともちあげているのに、
乱読せよ、量によって質的転換をはかれという、論法は一見矛盾にみちているではないか?
*** なぜなら、数十万人にうけるということは、その程度にまで、わかりやすく かみくだかれているわけで、テレビ同様、質的低下をまぬがれないからだという。 ■前々回ものべたとおり、
勝間氏は、「
精読しようとすると、全体のながれをつかみそこねるし、時間ばかりかかって量をこなせない。つまり、質をたかめようと読書速度をおとしても、アタマにのこって血肉化した 活用可能な知識の総量はへってしまい、要するに効率がわるいと」とのべている。この、要領よく おおづかみにしないと、「木を見て森を見ない」非効率だという指摘は、まったくただしい。「論語よみの、論語知らず」などと、直感的・経験的にかたられてきたわけだが、それでも、おおくのばあいは、古典=精読主義の対象、実用書=
速読の対象、といった二分法が自明視されてきたはずだ。■しかし、
勝間氏は、筆者が自己実現のために採算度外視の心血そそいだ
良書をよみとばせという。「
本はじっくり読まないことで。あまり欲張って、1つの本でわかろうとせず、1つの本から搾りとろうとせずに、パーッと読んで、まずは自分の興味のある部分、わかりやすい部分を抽出して読んでしまいます。本を読む前に、「なぜこの本を読むのか。この本から何を得ようとするのか」という課題を設定してしまうのです。…じっくり読んだとしても、意識できる範囲から抜け出てしまいます。しかし、無意識層には確実に残っていきますので、あまり意識層で時間をかけて読むよりは、ざっと読んで無意識層に蓄えて、必要に応じて引っ張り出せるようにすればいいのです」****と、いいきる。
**** 前掲 『効率が10倍アップする新・知的生産術』,pp.94-5■リクツはそれなりにわかるし、中長期的には正論なんだろうとおもうが、これは月間数万円以上の図書費をひねりだせる、エリート・ビジネス・パースンだけではないだろうか? それも、激務のなかで、コマぎれ時間を最大限に活用して、
速読ができるような、ごくかぎられた層だけの。
■
勝間さんのような、情報処理・発信のプロのような月間10〜15万円といった図書費は特殊だとしても、3000円の図書費では「
3か月に1回くらいしか、良書に巡り合えない」(p.91)と断言されてしまう。これでは、たつせがない層がたくさんいるはずだ。自分でかわない本は、結局よまない。などと、断言している以上、図書館や友人からかりてでも、「
本と接触する頻度を増やしてみて」(同上)などと提案されても、それが本気でないことは、すぐにわかる。■
勝間さんは、「資本主義の本質は、「賢くない人から賢い人へお金が移動する仕組み」ということ・・・ここで賢さというのは、価値ある情報の有無と置き換えることもできる」(同上、pp.29-30)と、いってのけている。つまり、「
3か月に1回くらいしか、良書に巡り合えない」層は、1か月に数冊の
良書をてもとにおいておく特権層に、一方的にむしられる宿命にあるし、
良書にめぐりあうすべ、意味をしらない層は、さらに絶対的な被搾取状況にあまんじるほかないということだ。■いや、
良書を、それほど大量におよみなら、こういった理不尽な格差拡大傾向をくいとめる解決策をおかんがえになった方がいいとおもうんだが。
■それはともかく、月間数万円の図書費と、そのなかから
良書を厳選するための
速読能力、そしてその選別作業をするコメぎれ時間の捻出ができる能力・余力がそなわっている層が、日本列島中にどのくらいいるというのだろう。■
勝間さん自身「
特定のターゲットに向けて深いメッセージを出した本は、初めから数万部売れると上々、という意識で……、初めから10万部以上売ろうと思って書いている本は、読みやすさを優先して」かく、とのべている以上、はじめから、《
こういった読書論が有効なのは、ごくかぎられた層だけなのだ》と、わりきっているのかもしれない。■いいかえれば、この
新自由主義のあらなみのなか、いきのこれるような層、いいかえれば、《そんなことができるなら、だれだって成功するだろうが》式の、みのふたもない「必勝法」を かいているだけかもしれない。
■そして、なにより
勝間流
読書論に、もっとも違和感をおぼえるのは、「
フォトリーディング」をはじめとした速読法によって、書物が量的存在として、わりきられている点だ。■つまり、良質な情報というのだが、所詮は、数千円という、1回の飲み代、数時間の時給でカバーされるにしては、対費用効果がバツグンによろしいといっているだけで、いくら「
ざっと読んで無意識層に蓄えて、必要に応じて引っ張り出せるようにすればいい」といわれようが、そんなものは、
読書なんかじゃないという層は、かなりおおそうだ。■そして、こんな 粗雑なあつかわれかたを文学書とか学術書があつかわれたら、それこそかわいそうすぎるだろう。そりゃ、1行1行線をひきながらとか、ノートをとりながらといった精読主義だと全体像がみえなくなるだろうけど、写経しながらよむことで、ものすごい発見がうまれるようなばあいだってあるわけで。古典なんて、大半がそうだとおもう。■こんな感じで量こなしたって、経済的にゆたかになれても、人生をゆたかには、到底できないとおもうんだね。
■いいかえるなら、こういった
速読=
多読主義、
市場原理主義のもとでの勝率を格段にあげるという意味では、「量的変化の質的転化」をかたって当然だが、読書や社交を経済的成功の単なる手段とみなす姿勢という意味で、「量的変化の質的転化」が冷厳にあてはまるだろうと。■
ミヒェエル・エンデが寓話『
モモ』でえがいたとおり、《時間を節約しようとあせる人間は、悪循環で 人生をどんどんまずしくしていく》って法則が、あてはまるということ。
●旧ブログ「
無意味な読書とは=「ムダ」とは なにか?9」「
読書に関する7のテーゼ」「
四〇歳からの勉強法」
●旧ブログ
「エンデ」関連記事●旧ブログ
「「ムダ」とはなにか」シリーズ●ブログ内
「「ムダ」とはなにか」関連記事
タグ : 勝間 読書 速読 多読 熟読 乱読 良書 市場原理主義
さすがに、ホリエモン系とは、少々ちがうとおもいますが…
■ありがとうございます。
■さすがに、ホリエモン殿と、勝間さんを同質視するのは、少々いきすぎかな、と個人的にはおもいます。勝間さんは禁欲的で、家庭生活とビジネスとの調和をはかろうとしていますが、ホリエモン殿は享楽主義で、たとえば保育所に おこさんを ひきとりにいくために、時間の算段なんかしそうにない(笑)。■いまだに弱者であることは いなめない、職業婦人(ふるい表現ですが)のネットワーク化をはかるという方向性も、単に人材活用という名目で、搾取しようというのではないでしょう。■ホリエモン殿のビジネス哲学には、「なりあがり」は感じても、弱者の解放なんて発想はみてとれませんし。
■ただ、勝間さんの人生哲学は、既存のビジネス書と同質のにおいがします。■女性同士の互助組織みたいな側面を除外すれば、「資本主義は、零和競争。情報戦の敗者は、ただむしられるだけという冷厳な事実がある」という現状追認が、前面にでてくる。
■そして、かのじょの読書論は、あくまで効率追求にすぎなくて、書物も情報収集のための素材=量的な資源そのもの。■そこには、「自分たち ビジネス・パースン自身が資本主義市場の素材=消費される量的存在にすぎない」という冷厳な事実に適応があるだけ。そういった土俵を変質させ、別個の社会体制へと改編できないか、みたいな発想はみてとれない。■そうであれば、『モモ』が寓意化した「灰色の男たち」に搾取されるひとびと、あるいは、吸血鬼よろしく、「灰色の男たち」自身へと変貌をとげてしまうひとびとと、そっくり かぶさってみえます。「素材としての時間」「素材としての労働力」「素材としての資本」「素材としての情報」「素材としての人脈」…。■すべてを戦略的に素材視するものは、他者だけでなく自分自身も素材視するほかなくなる。人生全体自身が、「有限の素材」という人間観以外がみちびきだされない。
■かのじょの読書論の、めのさめるような わりきりかたは、いさぎよい反面、それに無批判なばあい、実に危険だろうと。
■わたくし自身は、競争の敗者になろうと、ふりかえりたい本は、何十回であろうと たちかえるという、熟読主義をやめる気がないし、しばしば写経するような精読主義をくりえしていくでしょう。このブログでも、それをしばしば、やっているように。■「そりゃ、アホだ」といわれれば、「アホでけっこう」と、ひらきなおると(笑)。
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