プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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「量的蓄積の質的転化」考2【追記あり】

前便のつづき。

■量的な変化(蓄積か縮減か)が、一定段階をすぎることで、劇的な質的変貌をみせることは、別に、「お勉強」とか「修業」とかにかぎらないことは、いうまでもない。■人口ひとつとっても、100万人をこえるような政令指定都市は、道府県なみの法的権限をあたえれなかろうと、その人口集中ぶりが、巨大な経済圏・情報圏として機能させるだろうし、おおくのばあいは、人口集中による諸機能が「マタイ効果」をうむことだろう。逆に、世帯数が漸減・急減した過疎地などは、早晩「限界集落」として、中長期的な存続があやぶまれる地域となる。■過密と過疎との要因は、地域や周囲の社会・経済環境など、具体的経緯によってさまざまだろうが、人口という量的増大が、質的変貌として露呈することは、はっきりしている。

●「「東京圏」への人口流入加速、バブル期並み超過(総務省)


■そして、こういった巨視的な次元にかぎらず、微視的というより個人的な「お勉強」やら「修業」が、やはり「量的蓄積の質的転化」で説明できるとおり、個々人の日常生活の諸側面も、「量的蓄積」の冷厳な法則にとりつかれているとおもう。■それは、なにも、収入と資産によって、社会・経済的階層が厳然とわけられるといった、ごくあたりまえのことにとどまらない。 ■たとえば、昨年意表をついた減量計画をよにとうた岡田斗司夫氏の『いつまでもデブと思うなよ』のレコーディング・ダイエットとは、単純にいえば、基礎代謝量をはるかにこえた1日の総摂取カロリー量を自覚するために、視覚化せよということだった。■要は、過食症的に、はげしい摂取カロリー過多が、肥満をもたらすのが基本なので、それをイヤでも自覚できるように、メモるということにつきるわけだ。
■逆にいえば、基礎代謝量など個々人の新陳代謝能力の規模におさまっている飲食のばあいは、一時的にふとろうが、やせようが、もとにもどるわけだ。処理能力をはるかにこえた摂取カロリーさえつづかなければ、早晩、だいたい「普通の体重・脂肪率」にもどると。■だから、岡田さんのように、メモることによる視覚化→冷静な自己認識→減量がオタク的に目標化する、といった、いい循環がうまれるひとならともかく、メモを詳細にとるぐらいで、「オレくいすぎてる」などと、正気にもどれる(自身の食生活を徐々に制限できる)ような層にだけ、このダイエット法は意味があるのではないだろうか?■また、そういったことがある程度日常的にできるひとびとは、メモなんぞをとらなくても、「しばらく、量へらそう」といった調整ができるとおもわれる。■その意味では、岡田さんの提言はすべて現実的で冷静なんだけど、それが、ダイエットすべき層に実行可能かどうかは、少々微妙かも。

■この「吸収量」 >> 「排出(処理)量」といったアンバランスは、巨視的・微視的、さまざまな現象に貫徹している。■日本列島が過剰な輸入量によっておもたくなっているとか、産業廃棄物をふくめた廃棄物の処理能力をはるかにこえた生産・消費がおこなわれていることは、よくしられているが、辰巳 渚『捨てる技術』などは、個々人の処理能力をこえた購入が現代病なので、それをわりきって、ついつい、とっておきがち=ゴミになりがちな 生活習慣をあらためよという提案だった。■ムダな公共工事をみれば、「もったいない」といいたくなるが、すくなくとも、大都市部にくらす住民の大半にとっては「もったいない」は禁句であると。■でもって、その実に悲惨なケースは「ゴミおばさん」ということになる。
■通常は、収入か収納力か、どちらかで「はどめ」がかかる点では、うえにあげた体重・体脂肪の均衡状態にちかいものがうまれるし、ひっこしなどで、過重な蓄積は放出されるのだが、それができないばあいもあるわけだ(笑)。


【追記:2008/03/07 00:55】
■うえであげた、カロリー摂取/消費の構造と、商品の生産・購入/消費・廃棄の構造は、双方とも、「吸収量」 >> 「排出(処理)量」というアンバランスであり、まともな状態というのは、「吸収量」 ≒ 「排出(処理)量」というバランスであることは、いうまでもない。■しかし、現代社会は、食生活をふくめた消費生活を、基本的に「メタボリック症候群」化する圧力がかかっているといってよかろう。これは、資本主義がブルジョアジーの野望を実現したというか、「少数の富裕層の消費に限定されない、薄利多売による巨万の富」という利潤のカラクリがかかえこむ、さけられない副産物といえそうだ。■マクドナルド化によって、徹底的に合理化されたコスト削減と欲望開発システムは、厖大な肥満層を必然的にうみだすのだ。
■いや、「マックジョブ」によって提供される安価なサービスに依存しない層は層で、さまざまなグルメ文化が、過食をそそのかす。そうでなければ、さして低脂肪ともいえない「日本料理ブームなど、うまれようがなかろう。■そして、そういった 肥満へのドロぬまにおちいらないためにもと、広義のダイエット産業が、これまたバカにならない市場になっていることは、いうまでもない。
■「吸収量」 > 「排出(処理)量」という一時的過剰があっても、均衡をたもとうという、修正機能が通常ははたらく。■しかし、20世紀後半に「開花」してしまった、大衆市場むけ資本主義システムは、過敏な反応をひきだすぐらい、大量消費・大量廃棄を前提にした消費圧力をくわえている。たとえば、一見正反対にみえるが、拒食症といった悲惨なケース、そして前述した「ゴミおばさん」は、実は通底する反応だ。大量消費・大量廃棄を前提にした消費圧力に屈している自分に、ある意味自虐的なムチをあてているのが、かのじょたちであり、これらを「ひとごと」「対岸の火事」あつかいするのは、能天気すぎる。■おそらく、「吸収量」 >> 「排出(処理)量」というアンバランスが一定水準をこえた時点で「決壊」することを痛切に直感しているからこそ、かのじょたちは、いたいたしいばかりの 過激な行動をくりかえしているとおもわれる。■かのじょたちの「いたみ」を真剣にうけとめない社会体制は、いずれ 痛烈な「しっぺがえし」をくらうだろう。「不均衡」には「上限(限界値)」があるのであって、それをこえれば、質的転化=社会の破局がもたらされるのではないか? 「環境にやさしい」とかいった、大量生産・大量消費・大量廃棄を、なまぬるく容認するコピーをつくって気やすめ的に努力をしたポーズをつくることをくりかえす。罪悪感(≒「量的蓄積の質的転化」の意味する破局的予感)をごまかして、決断をさきのばしにしているかぎり、かのじょたちの黙示録的な「症状」をうけとめられないだろう。


●Google検索「矢部武+アメリカ病
●「マクドナルドで働く意味、マック・ジョブに新定義を?(フィナンシャル・タイムズ)」 
●旧ブログ「メタボリック症候群」関連記事
●旧ブログ「ヤセ」関連記事
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テーマ : 勉強 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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