■先月「
1月19日」の本文記事やコメント欄で、1月19日の過去のできごとや有名人の誕生日などをみると、気象データの「特異日」的なたとえをつかいたくなるとかいた。■実は、こういったことは、旧ブログの「
コピーとしての事件名(「9・11テロ」ほか)」という記事で、ほぼおなじようなことをかいていることに、きょう きづいた。
■それはともかく、記念日というのは、「
サラダ記念日」にかぎらず、個人的要素や小集団のかかえる特定の属性が決定的刻印をのこすことがすくなくない。「
9・11」にかぎらず、「
2・26」とか。あるいは、「
5・15」とか「
10・10」など、沖縄県関係者かどうかで、その意味が全然ちがうとかもね。
■たとえば、きょう
2月28日などは、ほとんどのひとにとって、全然特別な日にはならないはずだが、台湾のひとびとにとっては、
決定的でわすれられない「記念日」=二・二八事件(のろわしいという意味でだが)だ。そのことについては、
ちょうど一年まえ旧ブログでふれた。■1年まえに、どういった問題が世間をさわがせていたか? ちょっとおもいかえしてみると、びっくりする。1年間は、あっというまにすぎるが、社会システムや人心には、おどろくほど「進歩」がないことに、おどろかされる(笑)。■ひとは、「光陰矢のごとし」と、年月のすぎることを、自分の老化を象徴するものとしてモノサシにしてさわぐが、社会がおびただしい事件・事象をひきおこし、くりかえす悲喜劇の総体を冷静にかんがえると、個人のものがなしい喜怒哀楽同様、社会全体が狂奔の日々をくりかえしているいえるかもしれない。
■年金制度のデタラメさとか、原発震災を全然想定していない電力システムとか、リスクにさむけを感じる少数のひとびとは、ずっとわすれないんだが、ちょっとでも「ひとごと」とおもえる距離感がからむと、ひとはすぐわすれるんだよね。■農薬いり冷凍食品で、中国バッシングにはしっているメディアと、それにあおられる消費者とか、まあ みのほどしらずの、生活保守主義+軽薄愛国主義者だと、あきれるが、昨年のミートホープ事件やら、もうわすれているだろう。マクドナルドほかファストフードの不潔さとかもね。■やはり、ひとは、日記や百科事典をふりかえることで、おのれのアホさ加減・わすれっぽさを、ちゃんと反省しないといけないようだ。
■ちなみに、
二・二八事件を、台湾だけの「内政」問題というか、近代化途上の空間でおきた「うちわもめ」的な みかたをする日本人がいるとすれば、それは、日清戦争以降の帝国主義支配の負の遺産を忘却した人物の妄言だ。■台湾人のおおくが、「親日的」だからといって、過去をわすれていいわけがない。台湾や朝鮮半島でおきたことが、「ひとごと」に感じられる日本史教科書・世界史教科書をえんえんとおしえつづけているかぎり、日本人は東アジア・東南アジアのひとびとから、あなどられ、ういてままですごすことになる。過去の歴史について自己批判的な叙述をもりこむことを、「ほこりをうしなわせる」とか「諸外国のあなどりをうける」とか、「自虐的だ」とか、そういった見解があるが、知的・倫理的な次元での世界的孤立をしらない厚顔無恥・無教養のやからの暴言にすぎない。■このての連中がはびこり、あるいはそれに批判精神を発揮できない教育関係者が放置されているので、安保体制や沖縄をはじめとする植民地状況が一向に改善しないのだとおもう。歴史にまなばない連中。自己批判精神のない連中が、いくら現実主義やら、愛国心とか「ほこり」とか いっても、全然説得力がない。歴史的現実にまなばない、妄想的な自画像をかきつづけている連中と、運命共同体というのは、イヤだなぁ。世界中からどうおもわれるか、なんて、セコい次元でなく、イヤだ。一緒に大気を共有し、同時に呼吸しているという「想像力」が、気分をいちじるしく害する(笑)。
●「
加齢による時間の加速化をくいとめる意味」
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