プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

ブロとも申請フォーム

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

57音節系定型詩の本質

俳句川柳短歌狂歌、あるいは都々逸など、5音節・7音節だけの短型定型詩*は、方言ごとの音節イメージに地域差があることをわりびいても、ゆるい意味での「日本語」の音体系を前提にしている。■すくなくとも、われわれが通常前提にしている5・7系短型定型詩は、出版資本主義と公教育・兵役などを基盤にした標準語の支配的流通によって共有された、「日本語」意識と、それの機軸となる音節イメージが前提となる。

* 8・6が基調の琉歌は、音韻体系とか、言語体系が本来はちがうこともあり、おいておく。

■だから、①日本語と異質な言語体系のばあいは、基本的に この基準からはずれるし、②「日本語」というわくをとりはらっても、母音をともなわない子音とか、二重子音などが前提の言語のばあいは、形式をまねた3連とか5連などのフレーズをならべても、全然別物をやっていることになる。■それは、スパイスをすっていためることのブレンドから、南アジア・東南アジアの「カレー」文化なのであって、できあいのカレー・ルーをとかしてヤサイなどをにこんだものと一緒にしてはいけないのとおなじだとおもう。

■では、これら5・7系定型詩の本質はなんなのか?
■おなじフットボールといいながら、ボールをつかんでいいとか、ボールが球形でないとか、トライ・タッチダウンがそっくりだとかいいながら、ラグビーとアメリカン・フットボールには、決定的なちがいがある。攻守がきっちりわかれているかゴッチャか、メンバーや権利という両面で、双方はちがう。■しかし、全然みたことのない観客が、防具をつけているかどうかとか、屋内を前提にしているのと、屋外でしか普通ありえないことぐらいしか、ちがいがわからないように、両者は実ににている。外見がではなくて、本質的に共通している点があるのだ。■それは、全員が てでボールをあつかえるかどうかといった、サッカーとの異質性ではない。サッカーがタックル等で身体接触することが多々あるにしても、それがボールのとりあいに付随する現象にすぎないのに対して、ラグビーとアメリカン・フットボールは、タックルが競技の本質なのだ。いってみれば、ボールをけとばしあうために付随的にぶつかりあうだけのサッカーに対して、ラグビーとアメリカン・フットボールは、肉弾戦をおもしろくするために、非球状のボールが援用されているのにすぎない**。

** もちろん、自陣にボールをいれようとする敵を阻止し、逆に自分たちは敵陣にボールをはこぼうとする集団戦・消耗戦という点、その際に、敵味方双方のプレイヤーのうごきとよみを、予測しあう頭脳戦であるという、共通点が、これらフットボールにはある。攻守が固定されておらず、急に逆襲が可能だという点で、ラグビーとサッカーが共通していることなど、二者同士の類似点もふくめて。

■おなじように、短歌・俳句など まじめ系文芸と、川柳・狂歌など、おふざけ系文芸は、文化資本がともなわない読者には、歴然としたミゾがわからない。ましてや、季語がどうの、切れ字がどうの、余韻・オチの有無とか、そういったものは、よくわからない。季語がなくても俳句でいいとか、575自体こだわる必要はないなどという論者まででては、ますます混乱させられる(笑)。■しかし、この自由律主義者の主張(自由律俳句)を異端的存在としてあつかうなら、これら一群の短型定型詩には、あきらかな共通点がある。それは、標準日本語ないし文語を前提とした、5音節・7音節だけの連鎖形式だということ***。■でもって、この2種類しかフレーズをゆるさないという形式は、存外決定的な意味をはらんでいるとおもう。

*** おおまじめの標語なのか、痛烈な皮肉をこめた川柳なのかは、ときに判別がつかないこともあるだろう。もちろん、これは散文でもそうだが(笑)。


■ソシュールの連辞・連合関係のモデルによるなら、575…という音節の連鎖は、連辞の物理的制限にあたる。■たとえば、ツービートの毒舌「赤信号、みんなで渡れば恐くない!」も、5・7・5をふんでいて(実際には、6・8・5の「字あまり」)一種の川柳といえる。この形式(制約)にのっとらなかったら、これほど記憶にのこらなかったはずだ。■これは、オチもなんにもないが「青信号、みんなで渡って大丈夫」という優等生的標語と、連合関係になる。「アカ/アオ」「わたれば/わたって」「こわくない/だいじょーぶ」のように。
■芸術性と文化資本の誇示とを追求しているのだろう「本歌取り」は、「狂歌には、古今集などの名作をパロディ化した作品が多く見られる」とあるとおり、「本歌取り」という技法自体のパロディなのであり(つまり、二重パロディ)、替え歌などもふくめて、この連合関係の可能性を冒険的に利用しているといえる。
■そして、この連合関係を規制しているのが、5音節・7音節という「わくぐみ」なのだ。■もちろん、たとえば名詞+助詞の連鎖が、4音節+1音節か3音節+2音節、ないし6音節+1音節か5音節+2音節など、その内部でのバリエーションはあるし、上限は1フレーズが12音節まであるわけで、意外に多様な可能性がのこされていることは事実だ。■しかし、5+7とまたがる表現は主流にはならない。いきおい、7音節までの表現が徹底的にさがされることになるはずだ。■たとえば、字あまりの「あかしんごー」「あおしんごー」とはちがって、「きーろしんごー(7音節)」をつかいたければ、俳句・川柳のばあい、まんなかにすえる以外に選択肢がない。5音節の部分にいれたければ、「きーろでわ…」みたいに、「しんごー」ははぶく表現におちつくだろう。

■かくして、俳句・短歌系の定型詩表現は、これら「タガ」ゆえに、「やせがまん」というか、サーキットの省エネ・レースとか、アマチュア無線小電力通信のような、「ひねくれ」指向になりやすい。■なぜなら、散文にすれば、自由に連辞関係を選択できて、長文にも際限がないからだ。表現の可能性として事実上無限である散文を「あえてさける」点、しかも、連辞関係に極端なしばりがくわわる点にこそ、マゾヒスティックなよろこび・美学があるのだろうし、それなしに、愛好者がいるとはおもえない。
■そして、この連辞関係の極端な制限こそ、季語などへの執着の源泉だとおもわれる。【かきかけ】
スポンサーサイト

<< 『高学歴ワーキングプア』(水月昭道)続報2(女子篇) | ホーム | ひらがな市名は、どこか問題か? >>


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 BLOG TOP 


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。