日航ジャンボ機墜落事故から25年520人の冥福祈り灯籠流し 日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者520人の冥福と空の安全を祈る灯籠(とうろう)流しが11日夜、群馬県上野村の現場「御巣鷹の尾根」のふもとを流れる神流(かんな)川であった。事故から25年となる12日は多くの遺族が尾根へ登る。
遺族でつくる「8・12連絡会」によると、100人を超す遺族らが参加。「家族はみな元気です」「ずっと見守ってください」などと、四半世紀が過ぎても変わらぬ思いを書いた灯籠約300個を川に流し、事故で亡くなった歌手、坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」を合唱した。
長女淳子さん(当時20歳)の墓標を昨秋なだらかな斜面に移した大阪府河内長野市の泉谷明造さん(76)は「高くまで登るのが難しくなった。さみしさは消えないが、娘は戻って来ないことが25年でようやく分かった」と話した。【鈴木敦子】
2010年8月●「
今年も8月12日がやってきました。辛いですが、Flashファイルを載せます。」
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1985年8月12日 JAL123便ボイスレコーダー」
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ネットで語り継がれる機長の言葉、事故の記憶」
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ウィキペディア「日本航空123便墜落事故」(リンクは、適当)
事故の影響
事故直後報道で、「原因」の一つとして、航空機の知識に欠けるマスメディアによって取りざたされていたものの一つに「操縦ミス説」があった。事故前当時、日本航空ではトラブルが多発していた上、事故の3年前に日本航空が起こした羽田沖墜落事故では、機長の異常な操縦が原因で墜落し、大惨事を起こしたということもあり、世間は事故原因が特定されていないにもかかわらず、感情的に日本航空関係者やクルー、その家族にまで怒りをぶつけた。
クルーの遺族には連日、嫌がらせや抗議の電話や手紙などが相次ぎ、遺体安置所では日本航空社員が乗客遺族らから暴言、暴行を受ける被害が出ていた。このため、クルーの遺体確認の際は乗客遺族を一度全て退出させた後、裏側から入室、数十分間の限られた時間、あるいは、乗客遺族が帰った深夜に確認を行う措置をとった。
当時の日本航空の社長だった高木養根は、事故の責任を取って直後に辞任した。1981年の就任以来わずか4年の社長在任だった。
事故当時、後楽園球場外野右中間フェンスにあった日本航空の広告看板は事故直後の宣伝活動自粛により一時的に消され、他にもテレビやラジオ、雑誌、新聞などの広告が一定期間出稿停止され、ハウス食品も追悼の為、提供テレビ番組にCMを流さずに番組を放送した。また1963年の放送開始から優勝者のハワイ旅行の協賛スポンサーだった、毎日放送(MBS)制作・TBS系列の『アップダウンクイズ』も事故の余波を受け、同年10月6日の放送をもって22年の歴史に幕を閉じた。また日航の客室乗務員をモデルにしたドラマ『スチュワーデス物語』の再放送も、事故後数年間行われなくなった。
事故に関して日本航空が支払った賠償金[※ 13]の総額は、当時の額で約600億円である。航空の利用者は減り、東海道新幹線およびその他の鉄道路線の利用客は増加した[15]。
慰霊登山
墜落現場である「御巣鷹の尾根」[※ 1]には事故の翌年、慰霊碑が建立され[16]、毎年8月12日には慰霊登山などが行われている。事故発生から20年以上が経ち、遺族の高齢化が進んでいることから、2006年8月より墜落現場付近を通る砂防ダム工事用道路が村道兼林道として一般開放され、墜落現場まで歩く距離が約2.2kmから約800mに短縮された[17]。
調査資料
事故から15年を目前とした2000年、乗務員の遺族が長年訴え続けたコックピット・ボイスレコーダー(CVR)の音声が、乗務員遺族のみに聞かせる条件でカセットテープで提供された。同年7月から8月にかけて、事故調査の資料がマスコミなどに大量に流出した。この中にはCVRの音声テープも含まれ、以前に乗務員遺族が聞いた音声よりも鮮明だったという。8月8日には一部音声がテレビで全国放映された。この報道では、過去に報じられたような操縦ミスはなく、乗務員が墜落を回避しようとする必死の努力を行っていたことが明らかとなった。これによりそれまで乗務員に対して憎悪していた多数の乗客遺族達から、感謝の念と非難や暴言を吐いた事への反省・謝罪の手紙・声が乗務員の遺族に届けられたという。
同年8月、運輸省の航空事故調査委員会が保管期間の切れた一部の事故調査資料を廃棄していたことが毎日新聞により報じられた。再調査を求める遺族からは運輸省側の対応を批判する声が上がった[18]。
日本航空の取組み
2006年4月24日、羽田空港整備地区に日本航空安全啓発センターが開設された[19]。JA8119残存機体の一部(後部圧力隔壁、垂直尾翼前側、後部胴体の一部、座席、フライトデータレコーダ、コックピットボイスレコーダなど)を含め、事故に関する資料が展示されている。社内向けの施設であるが一般にも公開されており、事前に申し込みをすれば見学することができる。館内は特別の場合を除き撮影禁止となっている。
2次被害
事故後短期間で、身元確認作業に関連した多くの人が、過労などのために亡くなっている。
・遺族 - 大事にしていた娘を亡くした父親などが、事故後短期間で病死
・群馬県の医師3名 - 猛暑の中、窓を塞いだ体育館で、連日午前7時頃から午前3時頃まで2065体の遺体の鑑定を行った
・生存者を受け入れ、死者の鑑定を行った多野総合病院のレントゲン技師2名 - 同じく、入院患者に臭いが届かないよう窓を塞いで、休日もレントゲン撮影を行った
・旅館のおばあさん - 経営が苦しい中、お金を受け取ることなく、死者の鑑定を行う人を宿泊させて献身的に世話した
・日本航空の遺族担当 - くも膜下出血で死亡
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タグ : 安全真理省ハイパー独裁公文書
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2010年 8月 13日 10:36
http://www.janjanblog.com/archives/12228
…安住るり 2010年 8月 15日 08:57
>26青木岳陽 2010年 8月 14日 13:06
青木様、いつも冷静なあなたらしくありませんね。
26のコメントは、本当に、青木岳陽様ですか?
★
123便が★「撃墜」★された、とは、誰も言っていませんよ。
相模湾上で訓練していた自衛隊のミサイルが、何らかのミスで(私は、そのジャーナリストから、そのミスの原因についてある程度詳しく話をききましたが、それは私から公表するわけにはいきません。【米軍】は全てを把握していたようですから、あと25年くらい先に、「真相」が明らかになる可能性は、あるでしょう)
★
【自衛隊の訓練用ミサイルが「的」(まと)と誤認して123便の尾翼を破壊した】という「説」を否定したいのなら、
どなた様も、現在ネット上にある諸情報を、すっかり参照してからにしてください。
★
安住は、数ヶ月前に「25年前の夏の【事件】直後に実際に取材して記事にまとめて某雑誌に掲載が決まって印刷所に回った原稿が、理由なく止められて公表されなかった」という経験を語った実績あるジャーナリストの回想の一部を、ちょうど25年経った「この時期」に、8月13日の朝に目覚めた時に、「書くべきだ」と思い立って、書いたのです。……
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