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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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原爆投下から65年のなつ

原爆関連記事および、旧ブログ「原爆 を含む記事」の関連。


「核なき世界」実現訴え=「禁止条約」支持を表明-米国は出席せず・長崎原爆の日

 長崎は9日、65回目の原爆の日を迎えた。爆心地に近い平和公園(長崎市松山町)で「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が営まれ、被爆者や遺族、菅直人首相らが参列し、原爆死没者の冥福を祈った。田上富久長崎市長は平和宣言で、潘基文国連事務総長が提案する「核兵器禁止条約」への支持を表明し、「核なき世界」の実現を国際社会に訴えた。
長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典

 式典には、核保有国の英仏、事実上の保有国とされるイスラエルの代表や、国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長が初めて列席した。原爆を投下した米国は、今年初めて広島の式典には出席したが、長崎への出席は要請を受けながら見送った。返答もなかったという。参加国は過去最高の32カ国となった。
 式典は午前10時35分、世界で唯一、被爆者だけで構成する合唱団「ひまわり」による歌で開会。田上市長や被爆者らが、7月までの1年間に死亡が確認された3114人の名前を記した原爆死没者名簿3冊を奉安した。死没者は15万2276人となった。
 原爆投下時刻の同11時2分には、「長崎の鐘」や船舶の汽笛に合わせて1分間の黙とうをささげた。
 平和宣言で田上市長は、今年5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で核軍縮に消極的な姿勢を示した核保有国と、NPT未加盟のインドと原子力協定交渉を始めた日本政府に対し懸念を表明。今年発覚した「核密約」問題も引き合いに出しながら、非核三原則の法制化など、「核の傘に頼らない安全保障実現のため、被爆国として国際社会でリーダーシップを発揮してください」と政府に求めた。
 続いて、原爆で友人を亡くした被爆者代表の内田保信さん(81)が「平和の誓い」を読み上げ、「私は原爆を、核兵器を許すことはできません。今こそ日本が先頭に立って核兵器廃絶に向かって全世界をリードするときです」と訴えた。(「時事」2010/08/09-11:51)




浦上天主堂で祈る人々=長崎原爆忌
浦上天主堂で祈る人々

長崎は9日、65回目の原爆の日を迎えた。爆心地に近い平和公園で「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が営まれ、被爆者や遺族らが参列し、原爆死没者の冥福を祈る。写真は浦上天主堂で早朝から祈りをささげる人たち
>米大使「核兵器なき世界へ協力を」=国連総長ら、式典初参加-広島原爆忌
8月6日8時51分配信 時事通信

 広島の平和記念式典に初の米国代表として出席したルース駐日大使は6日午前、大使館を通じて「未来の世代のために、私たちは核兵器のない世界の実現を目指し、今後も協力していかねばならない」とのコメントを発表し、第2次世界大戦のすべての犠牲者に敬意を表した。
 米大使館は同日の声明で、日米両国に関して「先の戦争の悲劇から前進し、最も緊密な友好国・同盟国となった」とした上で、「(核廃絶を求める)オバマ大統領の構想を推進する目標も共有している」と強調した。
 ルース大使はオバマ米大統領と親密な関係にあり、広島を訪れるのは2回目。昨年10月の初訪問時は献花し、平和記念資料館で「核なき世界の平和と安全保障に向けて協力する大切さを認識した」と記帳していた。
 オバマ大統領の昨年4月のプラハ演説以降、核軍縮の機運が高まっており、今年の式典には国連の潘基文事務総長をはじめ、核兵器保有国である英仏の政府代表も初参加した。
 潘事務総長は被爆者や遺族ら出席者が見守る中、原爆死没者慰霊碑に献花。あいさつの中で「被爆者が生きている間に、核兵器のない世界という夢を実現しよう」と呼び掛け、国連トップとして核軍縮・不拡散を主導する決意を世界にアピールした。
 被爆地・広島については「平和の震源地」と表現。「今はグラウンド・ゼロ(爆心地)からグローバル・ゼロ(大量破壊兵器なき世界)への途上だ」とし、核廃絶に向けた国際社会と被爆者の協力を訴えた。
 英国のフィットン臨時代理大使は記者団に対し、米英仏3カ国の参加を「非常に有意義なことだ」と評価。「(式典は)感動的で印象深かった」と語った。 

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■ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領は、運動の象徴としてだけうけとったのだろうか? 日本に滞在中の人物を代理を広島にだけ だして、それで、国内の右派たちへの 配慮とのバランスをとったというなら、おそれいった 「現実主義者」だ。■というか、受賞直後に広島・長崎にでむかなかったというのは、つぎのような発言との矛盾が とりざたされても、しかたがあるまい。

「歴史を通じて、ノーベル平和賞は特定の業績を顕彰するためだけではなく、一連の目的に弾みを付ける手段として用いられることもあるということも承知している。故に私は、この賞を行動への呼び声として――21世紀の共通課題に対処せよと全国家に求める声として――お受けする所存である。」(ウィキソース「ノーベル平和賞受賞に際するバラク・オバマの声明」)



長崎新聞』2010/08/08
油の浮いた水ひたすら飲んだ 「平和の泉」手記少女の弟・山口さん

 「のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」-

 長崎市の平和公園内にある平和の泉には、当時9歳で被爆した橋口(旧姓・山口)幸子さん(74)の手記が刻まれている。一緒に被爆した弟で、当時5歳だった山口健行さん(70)も65年前、油の浮いた川で幸子さんと一緒に水を飲んだという。「あの時はただ『飲みたい』という気持ちが強かった」。そう振り返る。

 平和の泉は1969年、水を求めて死んでいった原爆犠牲者を慰霊しようと、核兵器禁止世界平和建設国民会議(核禁会議)などが浄財を集めて造った。そして、永井隆博士らが出版した「原子雲の下に生きて」に収録されていた幸子さんの手記が碑に刻まれた。
平和の泉
平和の泉を訪れ「あの時はただ『飲みたい』という気持ちが
強かった」と話す健行さん=長崎市、平和公園



 健行さんによると、原爆投下前の7月、母が妹を出産。一家は両親と幸子さん、健行さん、妹2人の6人になった。戦争が激しくなったため、浦上天主堂の近くから同市本原町3丁目(当時)に疎開。爆心地から2キロの小屋で被爆した。

 三菱兵器大橋工場にいた父が行方不明になり、一家は山にあった防空壕(ごう)に避難した。着くまで歩き通し、のどはからから。健行さんは幸子さんに連れられ、防空壕から約200メートル下った川に水を飲みに向かった。

 周囲には倒壊した家々があった。川面には油が浮き、飲むのを一瞬躊躇(ちゅうちょ)した。でも「どうしようもないくらいのどが渇いていて水が欲しかった」。

 幸子さんと無言でひたすら飲んだ。「今考えるととんでもないが、飲まずにはいられなかった」と振り返る。

 その後、けがをした父と再会。しかし、原爆は家族の命を次々に奪った。一番下の妹は25歳で白血病を、父は63歳でがんを患い、亡くなった。幸子さんも入退院を繰り返し、現在も闘病中という。

 健行さんは今、市立山里小の原爆資料室の案内人など、子どもたちとかかわる活動に携わっている。根底にあるのは「自分と同じ経験をさせたくない」という思い。「あの惨状を手記という形で伝えた姉を尊敬している。私も姉に代わって子どもたちに直接訴えたい」

 平和の泉の水は、9日の平和祈念式典で献水に使われる。7日、健行さんは久しぶりに平和の泉を訪れた。「(犠牲となった被爆者には)当時の油の浮いた水ではなく、この泉のきれいな水で安らいでもらいたい」。幸子さんの手記が刻まれた碑を見詰め、深々と頭を下げた。



●「長崎原爆資料館+長崎ちゃんぽん
●「取捨選択+補足版ウィキペディア「長崎の鐘」
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テーマ : 軍事・平和 - ジャンル : 政治・経済

タグ : 被爆体験

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コメント

当然の反応と、みぐるしい いいわけ

「何で来ないの」「失礼だ」=米国、平和式典欠席で―長崎の被爆者
8月9日18時32分配信 時事通信
 長崎原爆忌の9日、米政府代表が広島市の平和式典には出席したものの、長崎市の式典には欠席したことについて、長崎の被爆者からは怒りと落胆の声が相次いだ。
 16歳の時、爆心地から約1.8キロの地点で被爆した佐賀県の馬場和敏さん(81)は「何で来ないの。2発目の原爆を落とした長崎にも来て、被爆の実相を直接目にしないと。米国は一番来ないといけない国だ」とまくしたてた。
 同様に式典に参加した正林邦子さん(68)も、15歳の時から原爆症とみられる症状で苦しんできた。「広島に比べて、長崎を下に見ていると考えてしまう。しゃくに障りますよね」と憤った。
 長崎原爆被災者協議会の谷口稜曄会長(81)は「米国は失礼だと思う。原爆を投下した国は責任を負わなければならない。長崎に来て謝罪してほしかった」と肩を落とした。
 長崎原爆遺族会の正林克記会長(71)は「広島に来たことは評価できる。ただ、広島と長崎の被爆者は一体であることを理解してほしい」と、やり切れない表情で話した。
 米国大使館の報道担当者は「招待状は受け取ったが、スケジュールの関係で行けないと返答した」としている。 



祈念式典欠席で米国「大使の日程調整つかず」
8月9日13時41分配信 読売新聞
 祈念式典に米代表が欠席したことについて、駐日米大使館の担当者は9日、「ルース米大使のスケジュールの調整がつかなかった」との見解を出した。

 大使は事前に長崎市の田上富久市長に電話をして「今回は行けないが、いつかは平和公園などを訪問したいと思っている」などと伝えたという。

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■大統領から 召還をうけて急遽帰国となったとか、家族が急病で病院にかけつけたとか、そういった理由ならまだしも、日程調整がつかなかったなど、軽視していると、公言しているようなものだ。優先順位上、ひくかったと あからさまにいうような人物が、非核運動に熱心だなどというのは、ウソだろう。■かれらうけた「感銘」とやらも、あやしいものだ。帰国したら、わすれてしまうたぐいの一時的感傷でしかないのでは?

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