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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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障害学からみた学校の本質

■『hituzinosanpo』シリーズ第2弾。■今回も、虚をつく提起。


人権教育は、ありえない
2008年01月31日 15時47分11秒 / 障害学

……
なにが教育をなりたたせるのか。たとえば、学生みんなが席にすわって授業をきく。授業に参加する。これをあたりまえのことだと想定すること自体が、おそろしい発想である。

……わたしにとって、授業にならない教室というものは、とても自然なことだと おもえる。50分も席に すわりつづけるなど、すべての人間が できることではない。あたりまえのことだ。

ではなぜ進学校では、だいたい みんなが授業に参加できているのか。それは、学生を選別したからだ。


ある学校で、人権教育をおこなう。どのような人権をおしえるのか。どのような教育にするのか。それを議論することも大事だ。けれども、学生たちが その学校に かようようになるまで、さまざまな選別を通過している。学生たちは、選別に勝利したものたちだ。

選別というと、入学試験だけをイメージしているかもしれない。だが、そうではない。「就学時健診」による選別もある(小笠毅=おがさ・たけし『就学時健診を考える』岩波ブックレット、山田真=やまだ・まこと『子どもの健康診断を考える』ちくま文庫)。


そうなると、人権教育をなりたたせるものは、従順な学生の選別ということに ほかならない。意図していなくても、人権教育の授業もまた、少数派の排除によって成立しているのである。だから、人権をおしえながら、さまざまな少数派が自分の授業に参加していないことを、ただしく感謝しなければならない。自分が選別されたエリートを相手にしていることをありがたく感じなければならない。

高校でも大学でもいい。スリッパぐらいしか「自分のもの」を認知できないようなひとが参加してはいけない理由など存在しない。まどをポンポンたたいたり、そのへんに すわりこんだり、イスにすわったり、じっとしていることのないひとが学校に存在してはいけない理由など、あるはずがない。けれども、現実には そういったひとが排除されている。それは、効率をもとめた結果にほかならない。

安定、効率、安心、そんなもののために、最初から いなかったかのように あつかわれているひとたちがいる。そうしたひとを排除することで授業が なりたっている。排除は しかたがないとは いわせない。そして、排除しているのは、はっきりとした事実である。

統制のきくひとたちが参加する学校。そこで なにが おしえられようとも、人権侵害を前提とした社会システムに ほかならない。学校で人権をおしえるということは、矛盾をおしえるということ、ホンネとタテマエをおしえるということ、人権をいかに侵害するかということをおしえることにしか なっていない。それは、いかに教育内容をかえようとも、おなじことである。

人権教育など、ありえない。教育は人権侵害を前提にするからだ。統制を前提にしない教育なら、強制的に授業の時間が決定されていてはいけないし、場所が勝手に きめられていてはいけないし、おしえられることが学生との相談なしに決定されていてはいけない。

教育ということばを、なんのためらいもなく つかえるひとに、人権を論じるほどの人権意識は存在しない。

教育を学習支援に転換すれば、ひとりひとりが みえてくる。学習支援ということであれば、時間や場所を強要することはできなくなる。なにをおしえるのかではなくて、なにをまなぶのかという主体的な いとなみになる。

学習支援をするには、よみとりが必要になる。なにが必要な支援なのかをなやむ必要がでてくる。そこにはジレンマがあるだろう。ほんとうに これで いいのかという、うしろめたさをかかえこみつづけるだろう。けれども、選別を自明とした教育実践からは自由になれる。効率や安定をもとめる気もちからは自由になれる。

ゆれる気もちと つきあいながら、むきあっていくことができるようになる。それが歓迎すべき変化でなくて、なんだろうか。

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■ごくごく単純に論点整理すると、①教育の本旨は「学習支援」のはずである。しかし、「健常者」しか射程にいれないのが、ほとんどの教育空間だった。■②つまり、イスにじっとすわって授業をききつづけられるといった心身を用意できたものだけが、「学習支援」をうける権利をもつかのように、入学試験やらなにやらが機能してきた。■③例外的な空間は、養護学校など「特殊教育」の組織だけといっても過言でない。■④つまり、教育機関・授業実践のほとんどが差別・人権侵害を前提に成立している。
■⑤第一、授業時間・空間・手法自体が、組織本位・教員本位であって、学習者主権がとおったためしがない。「障碍」がないなどの条件もふくめて、学習者主権を主張することなく、学校・教員のつごうに適応できる層だけが「お客さん」としてえらばれ、収容されている。

■⑥であるならば、差別・人権侵害を糾弾するような、そういった現実にきづかせるような授業というのは、自己矛盾をきたしてしまう。■本来投下されるべき学習支援をほうりだして、効率・安定を維持することを前提にした、実に差別的な授業空間という現実。それを直視しない差別問題教育という偽善。……


■正論だとおもう。■はてなブックマークには、いろいろかいてあるようだが、ふれない。

■問題は、この議論を徹底したばあいに、ほとんどの教育機関は存立の論拠をうしなうということ。とりわけ、効率重視の有力大学などは、社会的矛盾・不公平について ふれる倫理的基盤をもたない連中ということになる。■要は、クメール・ルージュや中国共産党の文化大革命のような、つるしあげ攻撃が多発しそうな予感が(笑)。
■いや、これは単なる「被害妄想」のたぐいではない。たとえば、先進地域にくらすということは、入国管理体制を前提にした経済格差で特権的に保護されているということを意味する。第三世界の中層以下のひとびとからすれば、先進地域にくらしているかぎり、ホームレスであろうが、障碍者であろうが、相当な資源を日々消費しており、自分たちの収奪に依存しているとね。■「国内」に領域を限定しても、学習権(学習支援要求権)が充分みたされていないという主張が、障碍者や貧困層からでるのと並行して、さまざまな機会の不均等が放置されていることが浮上する。「適切な支援をえられれば充分やれる」といった層以外に、単に理不尽な不公正にあっている層もいるからだ。たとえば、女性なら、こそだて支援をえられないから男性と対等に競争できないんじゃなくて、性別役割分業が公然とおしつけられ、あるいは賃金差別や昇進差別が隠然と機能しているからだ。
■つまり、「機会均等原則」がそこなわれているのは、「障碍者などの学習権」だけではないということ。相対的な「欠乏」層からすれば、中位以上の層はすべて、機会を不当に限定して自分たちを排除しているようにうつるだろうこと。それらの「欠乏」感は、相当程度ただしい直感だということだ。


■もちろん、「あせってやったって、よのなか、そうそうかわるわけない」って達観からすれば、効率重視の学習空間なんてのは、ナンセンスというものだろう。■ただ、官僚制システムは、「納期」厳守が必要だったり、いろいろな理由で「一番ゆっくりな構成員のペースにあわせる」という原則を到底維持できない空間がありそうだ。■周囲が「戦場の論理」で疾走し、ときに攻撃をしかけてくるといった殺伐とした時空にあって、「まあ、そうせくな」は、とおらないことがある。「さきおくりにできること」と「できないこと」が現実にあったりするからね。

■「各人の能力に応じた教育」を合理化したり、「習熟度別学習」を当然視したりする気はない。しかし、「名利」ときりはなしたかたちでの「いきる速度の自由」は、教育空間でも保障されていいとおもう。■「はやければはやいほどいい」とか、「はやいにこしたことはない」という前提はまちがっている。それを前提にした公教育空間も差別的だ。■でも、「ゆっくり いきる自由・権利」とともに、「はやく いきる自由・権利」も保障されてしかるべきだろう。

■この提起は、非常にあぶなっかしいとは重々承知している。これをみとめてしまったばあい、「習熟度別学習をうける権利」やら「私学によって公教育をうける権利」を保障しろという大合唱がわきあがり、それを否定するのがむずかしくなるだろうから。■いわば、「ぬけがけ」の論理を助長しかねない。
■要は、「いきる速度の自由」が、市場原理によって不当な格差の合理化につながらないような、システムをかんがえることだろう。■「ぬけがけ」しようとする連中が巨額の利潤をあげることが当然視されるようなシステムを放置しておいては、「いきる速度の自由」の保障は「格差拡大の追認」にしかならないから。
■左派リバタリアンが、自由と公正という点で「いたばさみ」にあいがちであるという、典型例だね(笑)。
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コメント

「社会を図書館にしていく」

いつもトラックバックをありがとうございます。

最近わたしは、時間というものを、もっと ゆったりと とらえてもよいのでは ないかと感じていて、いまになってコメントをかきます。

「■問題は、この議論を徹底したばあいに、ほとんどの教育機関は存立の論拠をうしなうということ。」とのことですが、そのヒントは、図書館サービスにあると おもっています。

具体的にいえば、「図書館利用に障害のある人々へのサービス」と よばれるものです。

この「図書館」の部分をよみかえていくことがヒントになるのではないかと おもっています。なにを、ということでいえば、すべてを、だと おもっています。

山内薫(やまうち・かおる)さんの『本と人をつなぐ図書館員-障害のある人、赤ちゃんから高齢者まで』読書出版が参考になるかと おもいます。

社会言語学と障害学をなのっていると、この図書館への関心が ぬけおちてしまって、残念に おもっています。社会言語学と障害学が交差した、その接触地点に、図書館サービスがあるのだと おもいます。もちろん、交差点にあるのは ほかにも たくさん あるでしょうけれども。

「社会を図書館にしていく」←同感です

■最終的には、いきたいひとだけがスクーリングをうけ、直接たしかめたひとだけが図書館に来館する、ないし貸与サービスをうけるべきで、ウェブ図書館と、その利用法サイトおよび指導員サービスあたりが、理想でしょう。■無料貸与ノートパソコンが、無料の無線LAN接続によってインターネットとむすばれるようなシステムのうえで。
■ま、これによって、研究者や準研究者の大半が失業するでしょうが、研究はもともとアマチュアがボランティアでやれるのが理想なので、こういった大量失業というか、業界消滅も理想への必然的方向性でしょう。

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