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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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ひらがな市名は、どこか問題か?

■紹介しようとおもいつつ、さきのばしにしていた、安田敏朗『国語審議会』。■たちいった書評がでたので、紹介。『Nikkei Business online』の「毎日1冊!日刊新書レビュー」から。


「ひらがな」の市名、好きですか~『国語審議会』安田敏朗著(評:近藤正高)
2008年2月14日
 つい先日、文化審議会の国語分科会が、「常用漢字表」に新たに11字を加える案を承認した(1月28日)。案にあがったのは、「阪」「熊」「奈」「岡」「鹿」「梨」「阜」「埼」「茨」「栃」「媛」と、いずれも府県名に使われている漢字で、いままで常用漢字表に入っていなかったのが意外なくらいである。

 ところで、「国語分科会」という組織名に耳慣れない人もいるのではないだろうか。むしろ「国語審議会」なら聞いたことがあるという人のほうが多いかもしれない。

 実は、国語審議会という名前の組織はすでにない。1934年に文部大臣の諮問機関として発足した国語審議会は2001年1月に廃止され、新たに設置された文化審議会の国語分科会として文部科学大臣の諮問機関へと移行し、現在にいたっている。

 というわけで、タイトルにずばり「国語審議会」と掲げた本書の登場である。

 国語とはそもそも近代国民国家が国民を統合するため、政策という人為によって創出されたものだ。著者によれば、そのとき、大きく分けて二つの方向が提示されるという。

 一つは、国家の領域内において、地域的にも階層的にもあまねく通用するものにしようという方向であり、もう一つは、国家の歴史や文化をあらわすものにしようという方向である。

 この二つの方向は本来相互補完的なものだが、著者は便宜的に前者を「現在派」、後者を「歴史派」と名づけ、国語審議会を舞台にした両者のせめぎあいの歴史を検証している。

 話をふたたび常用漢字に戻すと、現行の常用漢字表はもともと「当用漢字表」にかわるものとして登場したものである。

 当用漢字表は、漢字の使用に制限をかけるものとして、敗戦後の1946年、「現代かなづかい」とともに公布された。その背景には、わかりやすい表記によって民主化を促進しようという日本国内での動きや、漢字廃止とローマ字の採用を求めるアメリカの意向もあったとされる。

 とはいえ、漢字制限自体は明治時代に国語政策がはじまって以来懸案となっていたものである。

現在派と歴史派の闘争
 先述の現在派は、国語普及のためにはことばの表記はできるだけ簡単であるべきだと考え、ことあるごとに漢字を制限しようというこころみを行なってきた。だが、そのたびに歴史派の強い抵抗にあってきた。

 たとえば、1942年に国語審議会が答申した「標準漢字表」もまた漢字制限をめざしたものだったが、歴史派の反対を受け、答申を受けた文部省もかなりの字数を追加したため、実質上そのもくろみは果たされなかった。

 このことに対する現在派の不満が、戦後再開された国語審議会で噴き出す。著者はこれをとりあげ、〈民主化云々にかかわりなく、戦前の標準漢字表制定という事業を継続するところから、敗戦後の国語審議会ははじまったのである〉と戦前との連続性を強調している。

 すなわち、戦後も明治以来の「国家統治のための要具」という国語観に変更はなかった、ということである。このような国語観は、主張の異なる現在派と歴史派のあいだでも共有され、国語審議会ではひきつづきことばの一元的な管理がめざされた。こうした歴史をふまえ、著者は序章で〈ことばは、政策的に管理されてはならない〉と訴える。

 さて、当用漢字表と現代かなづかいの公布後、表記の簡易化・漢字制限という政策の流れは定着し、国語審議会では現在派がリードする時代がつづく。これに反発して1961年には歴史派の委員たちが脱退するという事件も起きた。

 だがこの事件は結果的に、両者を次第に歩み寄らせることになる。具体的には、これまでの政策への反省から、当用漢字や現代かなづかいの全面見直しが行なわれ、1981年には常用漢字表が、86年には「改訂現代仮名遣い」が答申されるにいたった。

 当用漢字から常用漢字への最大の変化は、そのあつかいをあくまでも漢字使用の「目安」としたことである。このように規制の度合いをゆるくしたことに対し、〈戦前をひきついだ統制路線が修正された〉と著者は一定の評価をくだしている。当用漢字表には国語表現を束縛し、表記を不自然なものにするという批判もあったが、それも常用漢字表の登場によってある程度は是正されたことはたしかだろう。

 こうして、長年現在派と歴史派の対立点だった〈国語の表記をどうするかといった技術的な議論〉はいちおうの終焉を迎え、国語審議会および国語分科会では〈国語によってなにができるのかという精神論へと重点が移っていく〉。その答申でも、国語を通じて「郷土愛」や「祖国愛」を身につけることが謳われるなど、多様化・複雑化する社会を統合するため、国語が規範を示すべきだという主張が強まる。ようするに、説教くさくなっていったのだ。

 このような近年の傾向に対し、著者は国語観の硬直性を指摘する。そのうえで、さまざまな国語が存在することをうけいれるような、柔軟な国語観の確立が必要だと説く(なお、著者のいう「さまざまな国語」には、〈簡単な日本語から複雑でめんどくさそうな日本語、そして日本語以外のことばが入り込んだ日本語まで〉もが含まれる)。

 ところで漢字制限論は、これまで紹介してきた流れとは別に、ワープロやパソコンの普及によって完全に打破されることとなった。

 日本語ワープロが発売された1978年、通商産業省(現・経済産業省)によって「JIS漢字第一水準」が制定され、コンピュータであつかえる漢字は急増した。これによって常用漢字表外の漢字も簡単に打ち出せるようになり、その使用は日常化していく。

 このような事態を受け、国語審議会は2000年にようやく「表外漢字字体表」で介入をはかる。しかしその内容はといえば、基本的には上記のような状況を追認するだけのものだった。

 冒頭にあげた常用漢字表への漢字追加も、結局は現状を追認したものにすぎない。今後もどうやら、技術の進歩にあわせるがままに漢字制限の緩和の流れは加速していきそうな気配である。こうした動きは、一面では日本語の多様性の容認ともとれよう。そう考えると、現在の国語分科会の方向は、著者のいう「柔軟な国語観」と合致しているようにも思える。

 だが著者は、制限の緩和が「無制限」となる可能性を指摘し、〈減少に歯止めのかからない日本人人口に対して外国籍居住者が増加の一途をたどるとき、なんでもかんでも漢字に変換されてしまうと困るのは、かれらだけではなく、当の日本人自身でもある〉と危惧を訴える。ようするに、無制限に漢字使用を認めることは、かえって日本語の多様化を阻害する、ということだろう。

 となれば、国語分科会は単に現状を追認するのではなく、なんらかのかたちでイニシアチブをとる必要があるはずだ。しかしそれは著者の序章における主張と矛盾するのではないか?そんな疑問に答えるように、著者は本書を次のように締めくくっている。

〈「ことばは、政策的に管理されてはならない」と序章で述べた。矛盾するようだが、そうならないようにする審議会こそが必要なのではないか。学識経験者で構成される審議会であるならば、時代の要請としての政策的介入を肯定するのではなく、時代に抗する機関であってほしいのであるが、これが夢想にすぎないことは、私自身よくわかっている〉


例えば、「ひらがな市」増加を止める

 どうもすっきりとしない結論だが、国語分科会は具体的にどのように「時代に抗する」べきなのか。私なりに考えるなら、たとえば、こんな抗し方はどうだろう。

 近年、政府の方針によって促進された「平成の大合併」で、あらたに誕生した市町村にはひらがなの名前が目立った。そのほとんどは、新しい地名を親しみやすいものにしたいと考える行政側の安直な発想によるものだろう。だが、地名が土地ごとの歴史を反映したことばだと考えるなら、これはあきらかに政策による伝統の破壊である。国語分科会はこうした時代の流れに抗して、なんらかの声をあげるべきではないだろうか。

 実はかつての国語審議会は、1950年代前半に進められた「昭和の大合併」を当用漢字普及の契機ととらえ、町村合併によって新しくつけられる地名の文字に、できるだけわかりやすいものが使われるよう建議を行なっている(ちなみに国語審議会には1949~62年のあいだ、建議が認められていた)。本書によれば、この建議はほとんど実効力を持たなかったようだが、当時の国語審議会は、歴史の流れを断つところにまでふみこんでいたのだ。

 ひるがえっていま、国語分科会が安易な地名変更について異議を唱えるなら、そんな過去への反省を表明することにもなる。なにより、伝統を強調する現在の分科会の方向性を、説教ではなく実行動で示すことになるではないか。そうなれば、私も国語分科会を支持するところだが。いや、これもまた夢想にすぎないのか……。

(文/近藤正高、企画・編集/須藤輝&連結社)

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■安田氏は、アカデミズムの政治からの自律という理想をかたると同時に、現実のアカデミズムのブレをなげいているだけだ。だから、「すっきりとしない結論」などというなきごとをいうのは、権威主義的に「回答」をのぞんでいたのをはずされたからだろう。
■また、市名の「ひらがな」表記を「行政側の安直な発想」「政策による伝統の破壊」といって、きりすてる根拠が全然しめされていない。■地名を漢字表記しつづければ、伝統がまもれているといった認識は、これまでの漢字地名の激変の歴史をしらないからいえる放言にすぎない。

■ともかく、安田さんが本書をかこうとした真意をつかみそこねては、詳細にあらすじを「素描」しようとしても、誤解をあたえるだけだろう。


●「■「多言語化現象研究会」第32回研究会
●旧ブログ「安田敏朗」関連記事
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有名ブロガーと その信者たちの知的水準

■安田敏朗『国語審議会─迷走の60年』についての紹介とコメント。
  ↓
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/12d7d1d8be4cdad00dbd36af98d956fb

■疑似科学でしかない俗論を きりばりして、日本語を論じたつもりになっている面々。池田信夫御大自身は、比較的マシなのだが、ファン層がひどすぎる。


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