プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは正論だとはおもうが…

■hituziさん〔『hituziのブログ 無料体験コース』〕の最近の記事「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」という文章は、一見奇矯にみえるけど、実は正論。

……
ベジタリアンを菜食主義者ということがあるが、これは単純な翻訳の問題ではない。それぞれ微妙に ちがった定義である。

ベジタリアンとは、なんらかのかたちで肉食に制限をおいているひとのことである。英語で「まったく肉をたべないひと」は、ビーガンという。ベジタリアンには いろいろと類型があって、サカナは たべるベジタリアンとか、トリ肉は たべるベジタリアンなどがいる。

菜食主義といってしまうと、肉食を完全に拒否しているひとというふうに感じられてしまう。だから、菜食主義者はベジタリアンの一部をさす表現であるとはいえるけれども、ベジタリアンの全体をよびならわす表現には なりえない。ベジタリアンも肉をたべるのだ。肉を まったく たべないベジタリアンもいるということなのだ。

なぜ肉をたべないか。それは、倫理的、宗教的、健康的、体質的、味覚的な理由から、ある肉や あらゆる肉をたべないことにしているのだ。それがベジタリアンの実態である。


そして!

人間すべての本質でもある。

つまり、ひとは すべて、倫理的、宗教的、健康的、体質的、味覚的な理由から たべるものをえらんでいる。すべての食材をたべるひとは どこにも いないのだ。
……




■ウィキペディア「ベジタリアニズム」などをよくよめば、hituziさんの立論が全然極端ではなく、実にもっともな結論であることがわかる。むしろ、世間で流通しているイメージが、かなりゆがんでいると。■もちろん、フェミニズムやコミュニズム、ほかさまざまな思潮に対する誤解と同様、大多数の人口が「ゆがんでいる」イメージを共有しているばあいは、それがいかに非合理的であろうと、巨大な力学を形成するわけで、ナンセンスどころか大問題なんだが、それはおく。

■ここで提出したいのは、hituziさんの立論した「正論」は、いかなる意味をもつかだ。■いや、「メタ言語論(素描力・批評力・反撃力)」シリーズで展開してきたとおり、hituziさんの立論は、「ベジタリアニズム」という人類に普遍的な現象についての「素描」であって、それは実にただしいのだが、ただしければいいのか? って問題。

■たとえば、「ひとは すべて、倫理的、宗教的、健康的、体質的、味覚的な理由から たべるものをえらんでいる。すべての食材をたべるひとは どこにも いない」「人間すべての本質でもある」という記述は、人類学的には ただしい。■しかし、だったら、「ヒト=ベジタリアン」ということになってしまう。なにしろ「すべての食材をたべるひとは どこにも いない」んだし。
■でも、「ベジタリアン」というのは、限定形容詞でしょう? つまり、「全体」よりちいさな「部分」であるはず。つまり、hituziさんの立論は、「全体=部分」という、パラドクス(逆説)の言明になってしまう。■同様に、「肉をたべるベジタリアン」という表現も、論理階梯に混乱を生じさせているとおもう。「ヒト=ベジタリアン」のなかで、限定しているってことはわかるんだが、「ヒト=ベジタリアン」って素描が意味があるか、問題なんだから…。
■とするとだね。「ベジタリアニズムは人間集団に普遍的で、むしろ これから完全に自由な存在はほとんどかんがえられない」というべきだとおもうんだね。以前、ヒトはなぜペットをくわないか? みたいな、くだらん立論してよろこんでいる先生がいたが、それと全然ちがった、ふかい人類学的考察ではあるとおもう。■しかし、「ヒト=ベジタリアンであるがゆえに、差別・異端視するな」という差別論におわるとしたら、つまらない。
■もちろん、「イヌくうな」「クジラくうな」式の暴論を検討するなんて、ちいさな課題にとどまらない。■「動物性たんぱく質をこのむ人間存在ってなんだ?」「植物さえも殺生することをいやがるタブー意識ってなに?」「食糧の配分の正義はもちろん、動植物を殺生するヒトの権利はどこまでまっとうといえるか?」なんてこともふくめて、とても射程のながい提起であることは、あきらか。
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コメント

ありがとうございます。

つい先日、ふたつのことをかんがえていました。

「ひきこもり」っていっても、夜には外出したりしているし、パソコンとか電話で、だれかとコミュニケーションをとってるよなあ。それって、いうほどには「ひきこもり」じゃないよなあと。ひとは、「ひきこもり」に おさまりきらないものだよなあと。

おなじく、たいがいのベジタリアンは肉も たべるんだけど、「肉をたべるベジタリアン」っていうと、矛盾のように感じるひとが おおいのだろうなあと。

タカマサさんが「とても射程のながい提起である」と おっしゃるのは、そのとおりで、いろんなことが念頭にあるんですが、ともかく、射程がひろがるのは、人間が自由だからだろうと おもいます。

「むしろ矛盾しろ」という記事に かいたとおり、

ひとは だれも、ひとつの定義に おさまりきらない。矛盾するのが あたりまえで、一貫性をどこかで うしなってしまうのが当然で、だれかに定義されながらも その定義を破壊するのが人間なのです。「人間は自由である」とは そういうことです。
http://blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo/e/46128c75799a3fdea2ecf4bbbf2cd816

そんなふうに おもっています。だって、最初自分でかんがえていたことをまとめて文章にしていくうちに、当初の問題意識をどんどん ぬけだしてしまうのですもの。いろんな おもいをこめて、「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」と かきました。

「ベジタリアン」と「人間すべて」は本質的に区分できないものだと おもっています。「点滴で いきているひと」と、それ以外は区別できるのですけれど。

一部で特殊な存在と おもわれたマイノリティが、じつは、それほどには特殊ではなく、普遍的な存在なのだと、おもいあらためる。そういうふうに価値観や世界観の「とらえなおし」をしていきたいと おもっています。

こちらこそ、ありがとうございます。

ひつじさん、こんにちわ

■まだ かきかけのまま ほうってある、「メタ言語論(素描力・批評力・反撃力)」シリーズの「反撃力」のところで かこうとおもったのは、外部からの定義(本質化・単純化)への抵抗というテーマでした。■今回のと、ばっちりかさなりますね。
■でもって、「ひきこもり」とか「障碍」とか、そういった「分類」するがわ/されるがわの関係性と、本質的に(可能性として)自由な人間存在ってのは、普遍的な課題ですね。

■ただですね。「ひきこもり」差別につながらないように、配慮してでのはなしですが、通常「ひきこもり」って分類は、学校やら職業やら、公的な空間に適当なペースででていけない、って「問題」だとおもうですね。「適当なペース」ってのは、かならずしも周囲からの権力的圧迫ではなくて、「世間」とおりあいたいという本人の意識があって、それが機能不全・不適応して、くるしいって。■本人がくるしんでないのに、「ひきこもり」って分類は、単なる偏見・差別・攻撃だとおもうんですけど、本人の苦痛という神経症的現象は、単なる本質化による幻想ではないとおもうわけです。自分の主体性が「自在」にならないという、「障碍」だと。

■「ベジタリアン」についていえば、方針・理念と日常・非日常の一貫性のなさとか、無自覚な自己矛盾とか、いろいろありそうです。■たとえば、植物をあやめることさえイヤだ、なんて殺生タブーなんて、「かすみくって、しね」といいたくなる(笑)。■結局、自分という身体性との距離感イデオロギーと、ヒトはずっとつきあっていくし、それと周囲との摩擦もつきまとうと。

トラックバック記事への返信

■ヒツジ氏の議論は正論である。というか、こちらの立論を巧妙にはずされた議論といえるかもしれない。

「「ヒト=ベジタリアン」って素描が意味があるか」。あるに きまっています。なにって、政治的な意味があります。社会運動的な意味があります。「南北問題」的に意義があります。

タカマサさんは、「「ベジタリアン」というのは、限定形容詞でしょう? つまり、「全体」よりちいさな「部分」であるはず。」と いいます。

だれにとって限定形容詞なのでしょうか。「やつらにとって」なら、わたしは そんなもの気にしません。「「全体」よりちいさな「部分」」になんか させません。

野菜をたべるという点において、あるいは、あかちゃんなど、肉をたべていないという点において、わたしたちは、みんなベジタリアンです。

ベジタリアンである程度が、それぞれ ちがうということです。


■「全体=部分集合(限定形容詞つきの一部)」って幻影が破壊された以上、「ヒト=ベジタリアン」という、ほとんど普遍的な真理がえられたわけで、それで充分というのが、ヒツジさんのいい分だろう。■そういった立論をされるかぎり、反論は不能である。定義の立脚点が破砕されてしまっているからだ。そして、そういった立脚点の政治的破壊は、基本的にただしいし。

■ただ、「ベジタリアンである程度が、それぞれ ちがう」という論理は、食文化の連続性をのべただけで、性差などとならんで、思想的に一見ラディカリズムにみえても、現実の政治性には全然影響力をもちえないかもしれないような予感がする。■はっきり境界線があるって信じている層にとっては衝撃的でも、そういった虚構にきづいている層にとっては、「みんな、それぞれ恣意的に肉食タブーをかかえている」っていう、現実的次元では、ほとんど政治性をもちえない結論と同義になりかねないからね。
■実際的意味をもちえない政治性の指摘は、政治的な遊戯におわってしまう。■そして、「みんな自由放題に肉食できているわけではなく、無自覚なタブーにとらわれている」っていう、実に正論な人類学的総括は、結果的に、「みんな人類おんなじだ」という、きわめて非政治的なメッセージと大差なくなり、逆説的に、ものすごい政治性を発揮しかねないという、不安がぬぐえないね。■だって、言語体系の連続性=非連続性と同様、微細な差異の蓄積による決定的な断絶とか、微細な差異自体が、ものすごい政治性をおびてきたのだから。■「よくみれば、みんな大差ない」という普遍的総括は、徹底的にラディカルに追及されればいいが、中途半端におわったときに、逆に最悪の差別化装置に転化しかねない。

社会運動としてのベジタリアニズム

タカマサさんのコメントで

「■「ベジタリアン」についていえば、方針・理念と日常・非日常の一貫性のなさとか、無自覚な自己矛盾とか、いろいろありそうです。■たとえば、植物をあやめることさえイヤだ、なんて殺生タブーなんて、「かすみくって、しね」といいたくなる(笑)。」

このフレーズ、いわれたときも、いまも、ゆるしていません。こういう ものいいを、できなくさせるには、どうしたら いいのだろうか、ということを、わたしは かんがえていきたいと おもっています。

反原発運動にも、「方針・理念と日常・非日常の一貫性のなさとか、無自覚な自己矛盾とか、いろいろありそうです。」とか、そういう発言をゆるさないのと、おなじ意味で、タカマサさんのコメントをゆるさないのです。

ベジタリアニズムが、現代社会をよりよくしていくための社会運動であることが、なぜここまでに無視されるのか。ただの「タブー意識」に もとづく、選択の問題だと おもわれてしまうのか。

わたしはここで、「反肉食!」「肉食打破!」とかいって、潔癖主義に たつよりも、わたしも あなたもベジタリアンだと主張することで、スタートラインに たちたいのです。肉食をうたがうという視点を共有したいのです。

論理学的な議論がしたいのではなくて、イデオロギー闘争をやっているわけです。


もいちどベジタリアンしようと おもったのは2006年いっぱいでレストランの仕事をやめてからのことですが、なかなか きっかけが つかめずに いました。

けど、しねと いってもらえたので、なんとか がんばります。肉をたべないことを「がんばる」のではなくて、肉食をうたがうという視点をどんどん提示していくつもりです。肉なんて、がんばらなくても たべずに いられますから。たべたいときは、たべるし。

論理的な議論しか、する気はありません

> 論理学的な議論がしたいのではなくて、イデオロギー闘争をやっているわけです

■一貫性がかけていることについての、せんさくとか、非難とかをしたかったのではありません。そんなことは、おりこみずみです。■むしろ、ふざけて皮肉をいったのに、感情的に全否定されたと、うけとめる あべさんの感覚が理解できません。

■肉食文化へのこだわりをなくすこと、そういった幻想から自由になって解放されることは、たぶんいいことでしょう。■でも、植物もとらないとなれば、非常に栄養的にかたよるし、それは過激な不殺生主義になります。■過激なディープ・エコロジーの一部が、あきらかに 一貫性を追求しすぎで、危険きわまりないのと、にたものを感じるということですね(ま、「ヒトなんて全滅した方が動植物にとっていいんだ」って思想を全否定はしませんけど)。
■その意味では、食文化は、理念的に整理されすぎていない=矛盾しつづけている方がいいとさえおもいます。

■それにしても、そんなに真意がつたわりにくい文章でしょうかね?

動物の権利とか

動物の権利とか考えているんですが、ついでにかまってもらえますかね?いや、たぶん原則論としては『正しく生きるとはどういうことか』(新潮社)の指摘のように、人間以外の生物に生存権をみとめる理論は立論がむずかしいということは認めるんですが、つい先日、目の前で自動車にはねられたネコを動物病院に連れて行こうとしているうちに、環境問題に関する講演を聴き損ねそうになったんですよ。結果として講演は終わっていたものの資料だけはもらえたのですが、そもそも人間以外の生物の命を気にしているうちに、より体系的な環境問題についての講演をききそびれる、というのは我ながらいかがなものかと。
ネコをどうすれば良いか分からず(運悪く昼間の動物病院がしまっていて夜間の動物病院がひらく前の時間帯だったので)、とりあえず手で抱いて車道から歩道につれてあげるだけしかできなくて、資料をもらった後に夜間の動物病院があく時間になってネコを連れて行ったのですが、ておくれだったのです。いや、もちろん環境問題に関する講演にでることが本質的な問題かというとそれも立論が難しいとは思うのですが、人命ならともかく動物の命を気にして「この時間でも開いている動物病院はないのか?」とあちこち電話するという時間の使い方は環境問題を真剣に解決しようとする姿勢とは矛盾しているような気もするんですが、一方で助かる確率がゼロパーセントではないだろうにほうっておくのもよいようには思えませんでした。
この点についてのあべさんおよびハラナさんのご意見をいただければ幸いです。

ベジタリアニズムについての見解

ご存じのとおり、かわいそうだから動物をたべないというのはベジタリアニズムの一部であって全体ではありませんよね。

わたしも、高校のとき、動物をころすのが かわいそうだから肉をたべるのをやめたのではありません。むだが すぎるからです。ぜーたくすぎるからです。

肉はべつに必要ないことに気がついたからです。

わたしは感情的には なっていなくて、自分のために、きっかけにしてもらっただけです。ベジタリアニズムを自分の思想として、ひきうけるうえでの。もう一度ね。で、わたしのベジタリアニズムは、あっけらかんとしたものです。

タカマサさんの

「■ただ、「ベジタリアンである程度が、それぞれ ちがう」という論理は、食文化の連続性をのべただけで、性差などとならんで、思想的に一見ラディカリズムにみえても、現実の政治性には全然影響力をもちえないかもしれないような予感がする。」

こういう「予感」は、わたしは どうでもいいわけですよ。わたしが かいてるのは、最終的な結論ではなくて、全部かきつつあるものですから。これから かいていくことに意味があります。途中の段階で、「予感」はないですよ。ああ、だったら「議論の途中」って かいとけ!ってはなしですけどね(笑)。すみません。

興味があるのは、たとえば、タカマサさんはベジタリアニズムにどれほど実践的に共感しますか、ということです。わたしのゆるいベジタリアニズムに。こういうこと いうと、うざいのかなあ、と おもうのですけども。ためらいながら。


矛盾しているのは、みんなおんなじなのに、なぜ社会運動をやっているひとが非難されるのか。皮肉であろうとですよ。それは、おこっていいところです。理解できませんなんていわずに、それくらいは理解してください。

気になったのは、タカマサさんはベジタリアニズムを社会運動だとは みなしていないんじゃないかってことです。南北問題は、肉をくわければ解決できるって夢みたいなはなしは、もちろんありません。けれども、先進国の人間が肉をたべまくっても、南北問題になんにも関係しないとはいえないものです。

「■その意味では、食文化は、理念的に整理されすぎていない=矛盾しつづけている方がいいとさえおもいます。」

これは、わたしも かいているとおりのことで、そのとおりです。

ベジタリアンを「菜食主義者」といって、かたくなでガンコで、偏狭な思想のもちぬしだと みなすのが、一般的な日本の風潮です。これは、ベジタリアニズムをひきうけなければ、感じることはできないことですが。なおかつ、たしかに、そういうひともいる。

その ただなかで、わたしは、どうあろうとするのか。それをかんがえています。

それをかんがえたくなったから、あらためて「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」をかいたし、内容も ただたんに、「みんなベジタリアンだ」といって放言するのではなく、明確な意図をもって、かいたわけです。

肉食をうたがう視点を提示するためです。ゆるい社会運動として。「ゆるい」のは、タカマサさんがいうとおり、「食文化は、理念的に整理されすぎていない=矛盾しつづけている方がいい」と、わたしも感じるからです。

「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」をかいたときも、もちろんベジタリアニズムを提示する意図がありました。だから、そのへんをタカマサさんは感じとって、「とても射程のながい提起であることは、あきらか。」とコメントをくださった。

この点は、ものすごく うれしかったし、感謝しているわけです。人間関係は二者択一じゃないんだから、感謝しつつ、おこるってのは、よくあることでしょう?

タブーの問題じゃない

タカマサさんが「タブー」という表現を連発される文脈が、わたしには わからない。

「タブー意識」「殺生タブー」「肉食タブー」。

人類学の文脈にもとづいているのか。それとも、わたしの以前の文章をよんでのことなのか。それとも、タカマサさんのベジタリアン観が そういうものなのか。

いずれにしても、「みんな自由放題に肉食できているわけではなく、無自覚なタブーにとらわれている」なんてのは、完全にわたしの議論を無視していますよね。まあ、そういうふうに解釈されたんでしょうけど。

わたしも、「おへんじ」と かきながら、結局かきたいことしか かいていないので、にたようなもんですか(笑)。

わたしが重点をおいているのは、「肉をたべるには、動物をそだてなければなりません。さて、どうやって そだてましょうか。」という点なのは、おりこみずみなんでしょう? なのに、なぜタブー意識の話に すりかえるのか。「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」の後半は よまなかったのか。

結局、ベジタリアニズムを「やさしさ」の思想に おしこめたいのかな、という無自覚な自己正当化を感じるわけです。たとえば、ウシをそだてるってことが、ものすごい消費だってことくらい、おりこみずみでしょう?

ウシをたべることの不合理という点くらい、タカマサさんの共感をかちとりたくなりました。論理的な議論にしか興味がおもちでなくとも。

過激な ひっくりかえし、価値相対化は危険だという、そういう わたしにたいする忠告は、よく わかりましたから。

動物の権利について

貝枝さま

■動物の権利を本気でかんがえたら、「ヒトはさっそくこの地球から退場すべきだ」という結論しかないとおもいます。■人民寺院的に、集団自死ってのは、あまりに過酷だし、現実的に不可能だし、おそらく生態系にとってもムリがありそうなので、化石燃料消費をけずり、徹底的に少子化して、徐々に人口をへらしていく…って、プランがよさそうです。
■ま、この路線ですと、ペットといった存在は、もっともムダな生命ということになります。
■もちろん、これらを否定して、ユダヤ・キリスト教的に、人間中心主義でひらきなおり、わりきるというてもあります。■ハラナは、いまのところ、不徹底にこちらをえらんでいるといえそうです(笑)。


あべさん

■こちらのコメント欄への直接的なおこたえにはなりませんが、新規記事をかきました。いま、元気がないので、ていねいに返信をかく気力・体力がありませんので、あしからず。

『hituziのブログじゃがー』から

「自分の手で殺せる生き物だけを食べよう」(きっこのブログ)
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080928/1222573039
……きっこさんは、「牛や豚や鶏のお肉を食べることをやめ」ているそう。そして、「魚介類はOK」としているそう。で、その基準は なにかと いえば、「自分の手で殺せる生き物だけを食べよう」っていう「俺様ルール」。……

 それでは、「自分の手で殺せる生き物だけを食べよう」っていう「俺様ルール」について。これって、一部のあいだでは、よく いわれていることでも あります。けど、あんまり意識されていない。わたしは、「ベジタリアン宣言」していますので、ベジタリアンなわけですけれども、「かわいそう」という感情は あんまり ないんですね。

 こどものころ、ザリガニとか、カエルとか、ムシとか、ヘビとか、たくさん ころしました。ごめんなさいっていう くらいに。たのしかったんですね。そういうことを やっていて、かわいそうだから ニワトリたべませんとは、なかなか いえないものですよ。きはずかしいですわ。
 高校生のころ、ともだちが「自分では ころせない」って いうのを きいて、びっくりしたことが あります。わたしには、そういった感覚が理解できない。なぜなら、わたしは平気で ころせてしまうからです(「シチメンチョウ(七面鳥)は すごかった」)。ニワトリだろうと、ウシだろうと。どんな動物でもです。こういう、わたしのような人間は、ちょっと バランスを とる必要があって、なんらかの べつの基準で制限を おくのが理想だと おもうのです。だから、「大量に資源を消費してしまう肉食には、制限をおきたいベジタリアン」を やっています。

「わらって ころそう、ニワトリを!」という記事を かいたことも ありますけど、そんなに「ひどいこと」ですか。「わらって ニワトリを ころす」のは。ひどくも なんとも ないでしょう?

 わらって たべているのだから、わらって ころすのが当然です。深刻ぶって ころすのなら、深刻な顔で たべるのが当然でしょう。自分では ころせないなら、たべないのが あたりまえでは ありませんか?

 ひとの感情は しらないので、ひどいことを かいているのかもしれません。けど、かわいそうなんて感情は、うえつけられたものにすぎないでしょう? 平気で ころしてる地域のひとは、かわいそうだから肉を たべないなんて いわないわけですよ。スライスされた肉を スーパーで かっている地域の ひとだからこそ、かわいそうということになるわけです。屠場(とじょう)を 自分たちの生活から とおざけているから、「かわいそう」になるのです。……



私の母は「白人は野蛮な肉食民族だ」と言い張りますが、
日本の歴史上、肉食でなかった時期など一度もありません。
そして母の実家は畜産農家で矛盾しています。

要するに肉食に罪悪感を感じる人はナチスと同じくただの差別主義者であるという事です。

cbさま

> 日本の歴史上、肉食でなかった時期など一度もありません。
> そして母の実家は畜産農家で


■日本列島の歴史上、養豚場をはじめとした食肉用肥育施設が全国に定着したのは、おそらくこの半世紀程度、かなりひろくとっても、一世紀あまり程度だとおもわれます。■そちらさまの「日本の歴史上」とは、いったいどういった基準と範囲(時空上・領域上)で、おっしゃっているのでしょう?

> 肉食に罪悪感を感じる人はナチスと同じくただの差別主義者である

■「要するに」などといわれても、上述したとおり、お説にはまったく合理性がないと、当方はかんがえております。どういった理由で「要する」になのか、簡明に補足おねがいいたします。


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