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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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民族学者で文化勲章受章者の梅棹忠夫さん死去、90歳(朝日)ほか

民族学者で文化勲章受章者の梅棹忠夫さん死去、90歳
「朝日」2010年7月6日

 「文明の生態史観」をはじめ独創的な文明・文化論を展開した民族学者で初代国立民族学博物館長、文化勲章受章者の梅棹忠夫(うめさお・ただお)さんが、3日死去した。90歳だった。連絡先は大阪府吹田市千里万博公園10の1の国立民族学博物館。

 1920年、京都市生まれ。昆虫採集の好きな少年で、旧制京都一中では山岳部に入り、それが人生を決めた。旧制三高時代に、中学の先輩で当時京都大にいた人類学者今西錦司さんらと登山や探検に熱中した。京都大では動物生態学を専攻したが、北部大興安嶺(現在の中国東北部)や内モンゴルなどを探検。野外調査を中心とする後の「梅棹学」の基礎を作った。

 戦後は、大阪市立大助教授時代の55年、京大カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊に参加。海外での調査を再開し、研究対象を人類学へと変えていった。

 57年に「文明の生態史観序説」を発表。旧大陸の文明の盛衰を気候や地理学的な条件により生態学的に把握したユニークな学説だった。日本とヨーロッパの文明を、それぞれ人類文化発生の地の縁に生まれるべくして生まれたと位置づけた。戦後の復興期を経て、日本が自信を取り戻し始めた時期で、「日本論」としても注目された。

 発想の才に恵まれ、分かりやすい文章を書くことから、その後ジャーナリズムでも活躍。「知的生産の技術」などのベストセラーで時代を先取りした。

 大阪万博をきっかけに政界や財界に働きかけ、国立民族学博物館を設立した。74年6月に初代館長に就任。「国立民族学博物館創設・運営による民族学の発展と普及への貢献」で87年度の朝日賞を受賞した。

 同館長は93年春まで務めたが86年、突然失明。それでも執筆の意欲は衰えず、「梅棹忠夫著作集」全23巻が94年に完結した。95年7月の文化勲章受章祝賀会では「100歳まで生きるつもり」と語っていた。2001年春に「文明の生態史観はいま」が出たときも「日本語のローマ字化を進めて国際化させたい」と話していた。



【梅棹さん死去】「失明後も意欲衰えず」 民博で須藤館長らが会見
「産経」2010.7.6 22:46
梅棹忠夫
2008年6月、米寿を祝う会に出席した
梅棹忠夫氏=大阪府豊中市のホテル


 梅棹忠夫さんが19年間にわたり初代館長を務めた大阪府吹田市の国立民族学博物館では、梅棹さんの死去を受けて6日、5代目の須藤健一館長(64)らが記者会見。「頭に大きな穴が開いたようだ。『梅棹の民博か、民博の梅棹か』といわれ、民博を世界第一級の研究所に育て上げた」と功績をたたえた。


 須藤館長によると、梅棹さんは1年以上前から「(私が死んでも)民博としては動かないで、家族の事を考えて静かにしてほしい」と話していたという。同館には5日の葬儀後に、家族から「静かにお見送りができました」と報告があったという。
 同館職員によると、梅棹さんは晩年、毎週木曜日に同館3階の研究室「梅棹資料室」を訪れるのを楽しみにしていた。失明後も頭脳は明晰(めいせき)で、昨年も口述筆記で2冊の著書を出版。職員に本を読んでもらうことも多く、研究意欲は衰えていなかった。最後に来館した4月中旬、須藤館長が昨年度の入場者数が20万人を越えたことを報告すると「よくやってくれた」と笑顔をみせたという。
 35年前からの師弟関係という須藤館長は、「先人を越える研究をしろと教えられた」と振り返り、「今でも民博で『館長』と言えば梅棹さん。今後も『梅棹美学』を受け継ぎ、民博を新しい知の発見の場にしていきたい」と語った。
 同館は「お別れの会」を予定しているが、詳細は未定。同館には、梅棹さんの書籍や資料など数万点が保管されており、同館は「整理したうえで公開も考えたい」としている。


【梅棹さん死去】「『巨星落つ』と感じた」松本紘・京都大学長
【梅棹さん死去】「良心的リベラリズム貫く」劇作家・山崎正和さん
【梅棹さん死去】「もう出ない巨人」仏教大教授・高田公理さん
【梅棹さん死去】「多くを教えていただいた」小松左京さん
【梅棹さん死去】情報産業、文化開発まで…大胆発想「文明学」築く
梅棹忠夫氏が死去、90歳 文化人類学を開拓「知的生産の技術」



梅棹忠夫さん死去 90歳…民博設立「文明の生態史観」
 世界の文明と民族文化を独自の視点で解明し、戦後日本の指針を示してきた人類学者、比較文明学者で文化勲章受章者の梅棹忠夫(うめさお・ただお)さんが3日午前11時7分、老衰で亡くなったことが分かった。90歳だった。告別式は親族で済ませた。喪主は妻、淳子(じゅんこ)さん。後日お別れの会を開く。連絡先は大阪府吹田市千里万博公園10の1、国立民族学博物館。
 京都帝大在学中の1942年に、旧満州(中国東北部)の大興安嶺(だいこうあんれい)を探検するなどアジア、アフリカ各地で生態学、民族学調査を行った。55年には、戦後初の本格的海外調査となる京都大カラコラム・ヒンズークシ(アフガニスタンなど)学術探検隊に参加。この経験をもとに57年、「文明の生態史観序説」を発表。敗戦で自信をなくしていた日本を西欧と並ぶ文明と位置づけ、反響を呼んだ。
 京都大人文科学研究所の教授に就いた後、70年の大阪万博開催にも尽力、佐藤栄作首相のあいさつなどを起草した。閉幕後、跡地利用として、民族学の拠点・国立民族学博物館の建設を提唱、初代館長として民族学、人類学の共同研究を指揮した。
 この間、学術調査で得たデータから新しいアイデアを生み出すテクニックを分かりやすく解説した「知的生産の技術」がベストセラーとなった。著書は、ほかにも「モゴール族探検記」「東南アジア紀行」「情報の文明学」など多数。
 86年、ウイルス感染で失明したものの口述筆記で著作を発表。91年に文化功労者、94年文化勲章を受章。
 2004年には肺と胃にがんが見つかり、2度の手術をしたが、08年6月に大阪で開かれた米寿を祝う会で元気な姿を見せ、今春まで、自宅から近くの同博物館に通っていた。
 哲学者の梅原猛さんの話「これほど悲しいことはない。梅棹さんは京都学派の若手から1950年代、さっそうとマスコミ界に登場した英雄。最初に会ったのは互いに40代のころだが、仏文学者の桑原武夫さんが常々『梅棹は天才だ』と言われていて、凡才の私には発奮材料だった。ずっと目標としていただけに、ショックでなりません」

(2010年7月6日 読売新聞)



「夢」と「行為」の人生…知の探検家・梅棹さん
 理系の動物学から文系の比較文明学へと転向し、民族学、家庭論、情報産業論などへと学問の垣根を超えて、各分野で第一級の業績を残した国立民族学博物館顧問の梅棹忠夫さんが亡くなった。
 戦前の青年時代から戦中、戦後を通して海外を調査して回った知の探検家。65歳で両目を失明した後も、まず現地を踏むという〈フィールドワーカー〉の姿勢を変えることはなかった。
 京都・西陣の履物商の長男に生まれた梅棹さんは、小学生のころから昆虫採集に熱中。繁華街に住みながら「山育ち」と称した。
 後に大陸の山脈へ、草原へ、砂漠へと行動範囲を広げた梅棹さんは、自らの人生をドイツ語で「トラウム(夢)とタート(行為)だった」と話した。「まず夢を描き、それを行為によって実現してきた」
 訪れた海外の調査地は数知れないが、第二のふるさととしたのが若き日を過ごしたモンゴルだ。新婚当時の1944、45年、内モンゴルの自治政府があった張家口(ちょうかこう)に住んだ。すぐ北を万里の長城が走り、中国とモンゴルという二つの文明が出合う場所だ。
 梅棹さんは馬やラクダで大草原へ乗り出し、「遊牧の起源は動物の群れと人間の家族の共生にある」という仮説を見いだした。ここでの暮らしが、京都帝大で学んだ動物学から、文明学への転換点となった。
 ソ連の参戦、終戦を経て数万人の在留邦人とともに命がけで帰国。戦後も世界各地を探検し、培った行動力と統率力で民族学会の悲願だった同博物館の設立にこぎ着けた。70年の大阪万博では陰の演出者として活躍し、「人類の進歩と調和」を掲げた万博の基本理念の起草にもかかわった。
 「私は教育者でなくアジテーター(扇動者)」と言い、後進の育成にも力を尽くした。60年代から人類学や探検を志す若者を自宅に集め、明け方まで議論する「梅棹サロン」や「近衛ロンド」を開き、世界各地の探検や調査に送り出した。
 楽天的な梅棹さんが唯一、悲観的に語ったのが日本文明の行方。その元凶は漢字といい、「不合理で不可解な文字体系、漢字を捨て、ローマ字表記に改めなければ、日本は世界の情報戦争に勝てない。このままでは21世紀半ばにぽしゃる」と心配していた。
 86年、突然の失明に襲われた際は、「我が人生もこれで終わり」と観念したというが、その後も月1冊のペースで新著を出し、周囲から「月刊うめさお」と驚かれた。97年には再びモンゴルに渡っている。
 今年4月まで毎週木曜、スーツにネクタイ姿で同博物館に顔を出した。全国の研究者から送られてくる刊行物や論文を、2人の秘書に読んでもらい、熱心に耳を傾けていた。最新の学術ニュースに強い関心を持ち続ける姿は、後輩の研究者らの精神的な支えになっていた。

(2010年7月6日15時00分 読売新聞)




現場主義に徹し自由な発想=梅棹忠夫さん

 「学問というものは、自分の足で歩く、自分の目で見る、自分の頭で考えることですよ」-。3日死去した民族学者の梅棹忠夫さんは、徹底した現場主義を貫き、固定観念にとらわれないことを信条とした。その自由な発想は「梅棹学」と評され、多くの研究者に影響を与えた。
 中学、高校時代は山岳部に入り、京大で動物学を専攻。戦時中の1944年に大学院生の特別制度で2年間入営が延期され、モンゴルへ家畜の生態研究に出掛けた。そこで牧畜民に興味が移り、その後の民族学研究の原点となった。
 終戦後の46年春に帰国し、55年に京大学術探検隊に参加。その帰り道、米国人学者と共にアフガニスタンからパキスタンを経て、インドまで旅をした。その道中、議論を交わすうちに着想したのが「文明の生態史観」だった。
 生態学に基づき、ユーラシア大陸の広い乾燥地帯を挟んだ東端の日本と、西欧の近代文明は「平行進化」をたどったと分析。「社会制度、交通、教育などの近代日本の基礎は江戸時代に出来上がっており、『近代日本文明は西欧のコピー』という通説に異論を唱えたかった」と論じた。
 「文明-」については、地球環境の激変を考慮していない、環太平洋やアフリカが考察の対象から落ちている、など批判的な見方もある。しかし、次の世代の研究者がさらに発展させていくための土台として、戦後日本人が記した最も重要な論文の一つであることに間違いない。(「時事」2010/07/06-13:42)

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■「「不合理で不可解な文字体系、漢字を捨て、ローマ字表記に改めなければ、日本は世界の情報戦争に勝てない。このままでは21世紀半ばにぽしゃる」と心配していた」とは、あまりに、ナショナリスティック。■しかし、失明して 対面朗読サービスの享受者となった梅棹翁は、障害学的な観点から、漢字表記を位置づけなおしていただろう。情報弱者の典型例としての漢字弱者=当事者として、漢字表記は「障害」だと、体感されていたはず。

■「知的生産の技術」に 高校時代にであわなかったら、いまの自分はいない。そういいきっていい。直接あったことはもちろん、とおくから 講演をきくことさえないまま、あえずに おわったが、師匠のひとりというほかない。
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コメント

すぐれたフィールドワーカー

梅棹さんのことは直接は存じませんが、千里の万博公園にある民族学博物館は好きですね。
ただし付設の総合研究大学院に大卒資格のないものも受験資格を与えていただけばなおよいのですが。

彼の本は何冊も読みました。たいへんおもしろく、また頭の体操にもなるいいものでした。
本ばかり読んで判断するのはばかばかしいという感覚をもちながらも、それゆえに孤立しバッシングされていた十代のわたしを彼の本はなぐさめ、はげましてくれました。
故人の冥福を祈ります。

先見の明があった知的巨人

…フィールドワークや京大人文研での経験から著した『知的生産の技術』(岩波新書 1969年)は長くベストセラーとなり、同書で紹介された情報カードは、「京大式カード」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%BC%8F%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89)という名で商品化された。1963年には『情報産業論』を発表。アルビン・トフラーの「第三の波」よりもかなり先行した時期に情報化社会のグランドフレームを提示した。「情報産業」という言葉の名づけ親でもある。その後の一連の文明学的ビジョンは『情報の文明学』(中公叢書 1988年 中公文庫 1999年)にまとめられている。
…… 
 1970年に大阪で開催された日本万国博では、テーマ委員の桑原武夫の要請により、「基本理念」を起草したとされている。国立民族学博物館の設立に尽力し、1974年初代館長に就任した。……
 日本語のローマ字論者(ローマ字化推進論者)で、社団法人日本ローマ字会会長でもある。梅棹の漢字廃止論自体は古くからのものであるが、1980年代以降の漢字廃止にかかわる論説には、…失明体験も深く影響を与えている。また、エスペラント運動家(エスペランティスト)であり、世界エスペラント協会の名誉委員である。…


●『文明の生態史観』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%85%8B%E5%8F%B2%E8%A6%B3)あたりは、さすがに いかがなものか? という感は いなめませんが、着眼が異様にはやく、驚異的に射程がながいことも事実。●コンピューター時代に、時代おくれになった議論が大半にみえますが、どうしてどうして、マルクス同様、「はやすぎる着眼」「おおきすぎる提起」を、われわれが うけとめそこなっている面がすくなからずありそうです。
●なので、ワタリさんの体験とは少々ちがって、冥福をいのるというより、故人の意思をどこまでつげるかといった感じがあります。「もちばで がんばってますから、みていてくださいねぇ」といったイメージですね。●無心論者にして 霊魂不在論者のハラナではありますが、もはや
かきあらためられることはない古典を再読・継承する気になってしまわせる影響力は、当方の妄想でしょうか?●右派が「古典にかえれ!」というときには、大半が、既存の体制擁護のために恣意的つまみぐいをもって悪用しているようにみえますが、儒教であれ、仏教であれ、古典への生産的回帰は、存外意義ぶかいかもしれません。安冨・本條『ハラスメントは連鎖する』で、ガンジーや『論語』などが参照されているところをみても、保守的回帰ではない、「温故知新」がありそうです(http://www.google.co.jp/search?sourceid=chrome&ie=UTF-8&q=%E3%83%8F%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AF%E9%80%A3%E9%8E%96%E3%81%99%E3%82%8B)。

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> ●コンピューター時代に、時代おくれになった議論が大半にみえますが、どうしてどうして、マルクス同様、「はやすぎる着眼」「おおきすぎる提起」を、われわれが うけとめそこなっている面がすくなからずありそうです。

そういえば、経営学者であるピーター・ドラッカーも、コンピューターというものが発明されたという知らせを聞いてすぐに、それは将来通信機になるだろう、と予想したのだそうです。現代の様な社会を予言していた人が、各界の一流の人物の中には、きっちり存在していたのですね。

ドラッカーは、たしかに巨人

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC(ウィキペディア「ピーター・ドラッカー」)
 ↑■ビジネス書の大半は、うんざりするので、ほとんどよみませんが、ピーター・ドラッカーは、別格のような感じです。かねもうけが目的ではなく、大企業やNPOをどうまともに機能=社会貢献させるかが 執筆動機だからでしょう。■おおくのビジネス書は、それをマネたフリをしますが、大半は、かねもうけが本心なので、それが すけてみえる。企業の社会的貢献とかいっても、カネかせぎの正当化のための便法なのですね。
■それにしても、高速計算機が通信機に進展するってみとおしは、おそるべし。

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[訃報]梅棹忠夫さん(2010/07/03)

●訃報 梅棹忠夫氏 - 民族学者、国立民族学博物館初代館長 ●ウィキペディア「梅棹忠夫」 ●「国立民族学博物館|名誉教授・初代館長 梅棹忠夫」 ●梅棹忠夫著作集 ●Google「梅棹忠夫」 ●「梅棹忠夫 プロフィール - あのひと検索 SPYSEE [スパイシー]」


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