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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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新型インフルエンザ騒動の怪46=豚インフルエンザ報道を検証する(第38回)「スペインかぜ」は虚構?

シリーズ「新型インフルエンザ騒動の怪」の前便「新型インフルエンザ騒動の怪45=豚インフルエンザ報道を検証する(第37回)日本でのスペインかぜ」続報。■今回も、“世界の環境ホットニュース[GEN]”の最近のシリーズ “豚インフルエンザ報道を検証する”の最新版を転載。


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世界の環境ホットニュース[GEN] 750号 10年04月16日
         ご意見・ご投稿 → このメールに返信

        豚インフルエンザ報道を検証する(第38回)

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 第38回 「スペインかぜ」は虚構?            原田 和明

 日本における「スペインかぜ」の第一波(内務省発表で25万人死亡)は「内務省の捏造」を疑わざるをえません。ところが、第二波では内務省がワクチン無料キャンペーンを推進して、意図的に犠牲者を作り出していた疑いがあります。つまり、「スペインかぜ」そのものが、今回の豚インフルエンザ騒動と同じく、虚構だった可能性があります

「スペインかぜ」第一波の内務省発表が疑わしい証拠は他にもありました。内務省衛生局発表のデータと、内閣統計局編の「帝国死因統計」による「流行性感冒」を直接死因とする死亡者数とが以下のように大きく食い違っているのです。

                  内務省衛生局     内閣統計局

(第1波)  1918年8月~19年7月   257,363        103,288
(第2波)  1919年8月~20年7月   127,666        111,423
(第3波?) 1920年8月~21年7月    3,698        11,003

 やはり、1918年の内務省 発表は 嘘くさいと言わざるをえません。

 ところで、「スペインかぜ」流行時の首相は、「平民宰相」と呼ばれた原敬(政友会。在職期間 1918年9月~1921年11月)でした。原の日記(原奎一郎「原敬日記」福村出版2000)には、1918年10~12月(日本での第一波にあたる)に、彼自身も大正天皇も「スペインかぜ」にかかったことが記されていますが、原は風邪の症状についてまったく心配している様子がありません。(以下「原敬日記」より引用)
 《1918年》
 10月26日「昨夜北里研究所社団法人となれる祝宴に招かれ
   その席にて風邪にかかり、夜に入り熱度38度5分に
   上がる」

 10月29日「風邪は近来各地に伝播せし流行感冒(俗に西班牙
   風【※スペインかぜ】と云ふ)なりしが、二日ばかり
   にて下熱し、昨夜は全く平熱となりたれば今朝帰京せ
   しなり」

 11月9日「過日来の風邪全快せざれば、休暇を利用して腰越
   別荘に赴きたり」

 12月4日「風邪引きこもり中なりしが、東京 各組合団体の
   連合会より招待せられ、かねての約束につき押して
   出席して一場の演説をなしたり」(翌日は終日療養)

 12月15日「風邪全快せず」

 12月26日「陛下御風気にて出御なく拝謁せず」

 12月27日「陛下御風邪にて臨御なきにより、余勅命を奉じて
   勅語を奉読したり」
(引用終わり)

 原はこの間ずっと風邪気味で過ごしていますし、大正天皇まで風邪を引いています。ところが、原はまったく心配している様子がありません。翌1919年末に大正天皇が「御足痛」で帝国議会の開院式を欠席したときは、「(山縣有朋と)聖上のことに関しては共に嘆息談をなし、国家のため如何にも堪へざることを互いに物語りたる」(1919.12.28)との態度とは対照的です。

 原が日記に「俗に西班牙風と云ふ」と記していますから、ただの風邪ではないことを既に知っていたとみられます。東京朝日新聞(1918.11.25)でも、「此のスパニッシ、インフルエンザは 多く急性肺炎に 変症して死去するもの多く(中略)土人米国人等之が為め危機に瀕するもの甚だ少からず。」と紹介されています。

 豚インフルエンザを屁とも思っていなかったと推測されるWHOメディカルオフィサー・新藤奈邦子と 同じ態度です。(第20回 GEN731)内務省発表だけでなく、欧米の「スペインかぜ」そのものが虚構であるとの確信がなければ、原がこんなに平然としていられるはずがありません。

 しかし、そんなことがあるのでしょうか?「米軍とともに欧州に渡り、西部戦線の両軍兵士に多数の死者を出して戦争(※第一次世界大戦)の終結を早めたといわれている」(中外製薬のホームページ)とのことですが、パンデミックが捏造ならば、話は逆で、戦争の早期終結のために「スペインかぜ」が利用されたと考えられます。実際、欧米諸国は社会主義の台頭により戦争を継続できる状況にはありませんでした。

「第一次世界大戦は、ヨーロッパの君主制の消滅をもたらし、旧世界秩序を決定的に破壊した。ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、そしてロシア帝国の4つの帝国が分解した。ホーエンツォレルン家、ハプスブルク家、オスマン家、そしてロマノフ家の4つの王家は中世以来の権力を持っていたが、この戦中あるいは戦後に没落した。そしてこの戦争は、ボリシェヴィキがロシア革命を起こす契機となり、20世紀に社会主義が世界を席巻する契機となった。」ウィキペディア「第一次世界大戦」

 今回の豚インフルエンザ騒動ではWHOが渡航禁止措置を採らなかったことが、偽装であることを白状しているようなものでしたが、「スペインかぜ」でも、西園寺公望が 1919年1月11日にインド洋経由でヨーロッパに向け出発し、後藤新平も2月7日に米国へ漫遊に出かけているように、政府要人である彼らもまったく感染を心配していません

 皇室関係では、竹田宮恒久王(享年37歳、大正天皇の義弟)が「スペイン風邪」で薨去(ウィキペディア「スペインかぜ」)とされていますが、原敬日記では別の原因が語られています。「午後7時よりご危篤の旨 深更宮内庁より報知あり。無論薨去と思ふ。先ごろより御重態なりしなり。なお、症状、癌かまたは潰瘍のため幽門狭塞の疑いありと医師より注意あり。驚きたり」(「原敬日記」1918.4.23)とあることから、竹田宮は 嘔吐していたが、吐血やチアノーゼといった「スペインかぜ」の特徴は なかったと 考えられます。いつから死因が「スペイン風邪」となったのかは不明です。

 さらに、10万人が死んだことになっている1920年1~2月に至っては原敬日記には一切、インフルエンザに関する記載がありません。では、内務省発表と内閣統計局資料が一致してくる国内第二波(1920年1-3月)では何が起きていたのでしょうか?

 第一波では、ガセネタの発表以外何の対策もとらなかった内務省が 1920年1月15日に突然、「うがい、マスクの着用、予防注射」を 奨励する「内務大臣 告諭」を発し(1920.2.4帝国議会衆院「流行感冒の予防注射に関する土屋清三郎君の質問演説」)、告諭 当日からさっそく「ワクチンの無料キャンペーン」を各地で始めています。

 この時期は日本での第二波の始まりと重なります。東京では、内務省の指示で「市民15万人に対する予防注射を無料に実行すべく同費用を市参事会に提出支出せしむる」方針が出されたばかりなのに、「(「告諭」発表と同じ)1月15日から市内 十箇所に 出張所を 設けて 医学士会で無料注射をする」(時事新報1920.1.15)というのですから、市参事会は 形式だけで、事前に「キャンペーン」の準備ができて いての「内務大臣 告諭」だったと思われます。この「ワクチン無料キャンペーン」で内務省が 支出した費用は 18万559円(1920.7.23帝国議会・衆院)でした。

 予行練習は兵庫県で行なわれています。「県庁では内務、警察両部を通じて五百四十余名の吏員に対し今七日午前十時から市内衛生課で流感の予防注射を行う由」(神戸新聞 1920.1.7)その後、内務省 衛生局からワクチン接種を呼びかけるステッカーが二万枚送られてきて、人の集まるところに貼っただの、映画館の幕間に、内務省の通達を放映させるだのの宣伝工作が行なわれています。その上で一般市民に対し、「流感予防を徹底的になすために各警察署に於て無料ワクチン注射を施す」(大正日日新聞1920.1.21 兵庫岡山付録)ことが計画されていました。

 保険会社にも協力要請があった模様です。「現在はまだ二万円位しか支払が無く市内で流感で死亡した方も数名に過ぎません。で当社では双方の利益を思って(横浜)市内だけの被保険者に対して19日から26日迄予防注射を施って居りますが大分来て下さいます」(横浜貿易新報 1920.1.26)

 さて、このときに使われた「ワクチン」はキャンペーンにあわせて伝染病研究所が急ごしらえで用意したものでした。(以下1920.2.4帝国議会・衆院「流行感冒の予防注射に関する土屋清三郎君の質問演説」より引用)

 土屋清三郎(立憲民政党)「北里研究所においては、この病原を確定すると同時に直ちにその予防のためにワクチンを研究し、治療のために血清を研究して、発表いたしておるにも関わらず、政府の唯一の防疫審事機関たる伝染病研究所は、当初より今日にいたるまで、この病原は何であるか決定しない。ところが、政府が予防注射を奨励する告諭を出すや否や、『病原は不明であるけれども、肺炎菌もあれば、インフルエンザ菌もいる。故にこのふたつを混ぜて予防注射のワクチンを作ったならば多少とも効果があろうと』いう憶測のもとに、その混合『ワクチン』が果たして効果があるや否やを実験することなく、直ちにこれを世に発行いたしたのであります。我々医師社会においては、何を目的として政府の伝染病研究所はこの予防注射の薬を作られたのであるかと言って、大なる謎といたしておるのであります。(中略)病原を決定せずして、漫然憶測的に予防注射を行なったというものは、わが国の伝染病研究所を除いては、世界のどこにもその実例がないのであります」
 (引用終わり)

 近藤達児(立憲民政党)は、伝染病研究所の混合ワクチンには副作用があることを追及しています。(1920.7.24 帝国議会・衆院「流行性感冒症予防法研究機関設置に関する建議案委員会-4」)

 山口県美祢郡で、予防注射の前に県の技師が住民に講話をした。技師は「伝染病研究所のワクチンは副作用があるから、予防注射は北里研究所のに限る」と話したが、このとき用意されていたのは伝染病研究所のワクチンだったから大騒ぎになった。それで、郡長が公文書で伝染病研究所に事実関係を問い合わせたというものです。近藤は、「府県の防疫官までもが伝染病研究所のワクチンを信用していないということは、そういう事実があるからではないか?」と潮恵之輔内務省衛生局長)に詰め寄っています。

 ただし、残念ながら、近藤は、山口県の技師の発言を彼の自発的言動ではなく、内務省の指示だと誤解しています。そのため、潮は「山口県の事実は承知していない。内務当局はどこのワクチンも公平に扱っている」との返答で切り抜けてしまいました。前回、北海道・上の国町での死者続出は伝染病研究所のワクチンが原因ではないか?と推理しましたが、当時すでに副作用が知られていたことになります。

 潮は山口県の例だけでなく、全国の防疫官が伝染病研究所のワクチンに懐疑的であることを承知していたと考えられるのが、次の記事です。(以下引用)

 「今までの方法では全く駄目であると(内務省)当局は俄に13日全国に向けて其状況を調査し予防法を宣伝する為めに十数名の防疫官其他を派した」(時事新報 1920.1.15)(引用終わり)

「全く駄目」だと結論された「今までの方法」とは、「啓蒙活動だけでは限界がある」という意味ではなく、山口県の例のように「地元の防疫官に指導させるやり方」を指ていると考えられます。副作用は確認されているが、効果はわからない伝染病研究所のワクチンを住民に接種させるためには、わざわざ政府が別途「防疫官其他」を派遣しなければならなかったのです。このとき防疫官其他は十数名どころではなく、防疫医64名、防疫監吏73名が各府県に配置されました。(大霞会編「内務省史(3)」原書房)


 内務省には秘密作戦をやっているとの認識があったようです。伝染病研究所ではワクチンを249万人分 製造したというのですが、その流通ルートがわからないというのです。近藤は「官営の研究所で、収支がなぜわからないのか?」と追及しましたが、それ以上の回答は得られませんでした。(1920.7.23 帝国議会・衆院「流行性感冒症予防法研究機関設置に関する建議案委員会-3」)

 大霞会編「内務省史(3)」では、「ワクチンキャンペーン」そのものが記録から消え、内務大臣告諭の「予防接種」が訓令での「早期受診」にすり替えられています。(以下引用)

 「当時インフルエンザの病原菌が確立していなかったので、各種のワクチンの効果は期待できず、患者隔離とともに、マスク、うがい、早期受診が奨励された。」(引用終わり)

 さらに内務省も文部省も「スペインかぜ」の原因究明やワクチンの開発に関わる研究を一切認めていないことを殊更に隠そうとしています。

 京都大学医学部で細菌学教室の教授だった松下禎二は、もともとの研究費が少ないために、研究費は自分の俸給から出していました。そのため、新たに「スペインかぜ」の研究をしたくてもおカネがないというので、文部省に「流行性感冒について研究したい」と予算申請をしたが却下されたという経験を述べた後、「ほかでは特別に研究所に(研究費を)出して研究をさせているのでありまするや否や? あるいは、伝染病研究所には 特別に、悪性感冒について研究をせよというご命令があったかどうか承りたい」と質問しています。(1920.7.22 帝国議会・衆院)(以下引用)

 潮恵之輔(内務省衛生局長)「お話の通り、特に伝染病研究所を督励して、この研究に当たらしめているのであります。」と答弁しつつも、「ワクチン製造費として数万円を支出したが、ワクチンの研究としては増額していない。伝染病研究所はワクチン製造費の中からやりくりして研究していると考えている」

 松浦鎮次郎(文部省専門学務局長)「特にこの研究についてこれだけのカネを要するから、特にカネを出してもらいたいという要求は別にこれまであったことはありません」


 しかし、翌日、野党議員から、「伝染病研究所の所長からは経費の増額要求があったにもかかわらず、文部省がこれを却下していた」ことが曝露されています。数万円のワクチン製造費も、「内務省史(3)」では「ワクチンキャンペーン」そのものがなかったことになっていたり、内務省編「流行性感冒の記録」では、伝染病研究所に 1万円で50万人分のワクチンを製造させたことになっていたりして、極力実際に反して過少に記録しようとの意図がよく出ています。

 内務省の「スペインかぜ」工作には前半(第一波、1918年10月-19年3月)と後半(第二波、 1919年12月~20年3月)では 明らかに違いが あります。前半は「ガセネタ」を流しただけですが、後半になると、副作用の大きいワクチンを伝染病研究所に作らせて、大々的な「ワクチン無料キャンペーン」を展開して、実際に被害を創出しました。

 このキャンペーンの目的は何だったのでしょうか? この頃、いよいよ「大正デモクラシー」の波が大きくなり、2月には 原敬の私邸がデモ隊に取り囲まれるという事態も発生しています。「当時の風潮は第一次大戦の終結、ロシヤ革命の成功などによって、いよいよ労働運動が本格的に行なわれるようになり、また連合国側のデモクラシーがドイツ軍国主義を敗退させたものとして、わが国もあげて大正デモクラシーを謳歌していた。このような風潮は選挙制度については当然に普通選挙の要求につながった。この要求が権利思想、とくに過激思想に結びつくことは原内閣だけでなく、政党、議会、官僚のともにおそれるところであった」(内務省史(2)P302)

 この後、大衆運動は急激にしぼんでしまいますが、「スペインかぜ」が大正デモクラシーに冷水を浴びせることができたのか、不況が原因だかはわかりません。(以下引用)

 「昨年及一昨年は一般に社会問題、特に労働問題が流行を極めた時期で、新聞や雑誌を見ても、労働問題でなければ中心問題とはなり得ない有様であった。然るに本年の春以来、経済界に反動的不景気の状態が表われて、一体の調子が大いに変って来た頃から、労働問題は俄に流行外れの気味となって、世人は之に対して余り興味も持たなくなり」(大阪毎日新聞 1920.6.29)
 (引用終わり)

 これが謀略ならば、キャンペーン開始前に原は山県有朋に承認を求めたはずです。それと断定はできませんが、原敬日記(1919.12.28)に「山縣を往訪せり、(中略)物価問題に関しては直接之がために騒擾起こるべしとは思わざるも、思想界の変化に関しては何事を生ずるも計られざるにつき、警視総監、憲兵司令官、衛戌総督等の間に協議し、万一のことあるも着々方針を誤らざることと、なすべきことを物語り」がこれに該当するのではないかと思われます。

 スペインかぜが虚構であることは与党の政友会も知っていたようです。松下禎二(立憲民政党)が「240万の患者と 約13万人の死亡者を出すような流行性感冒でありますからして、惨害のはなはだしきことは、尼港における『パルチザン』の横暴よりも尚お甚だしいと・・・」と演説すると、場内から笑い声が起こり、拍手するものまであったというのです。(帝国議会1920.7.15衆院本会議)

 尼港事件とは、シベリア出兵中の 1920年(大正9)3月から5月にかけて、共産パルチザン(遊撃隊)がアムール川の河口にあるニコライエフスク港(尼港)の日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)および日本人居留民を無差別に虐殺した事件で、日本人700人が死んだと いわれています。なぜここで笑いが起きたのでしょうか? 半年前には国内で12万人もの国民が死んだと内務省が言っている「スペインかぜ」被害を、二ヶ月前の共産ゲリラによる邦人の大虐殺事件になぞらえること自体が、与党議員(政友会)には「笑える」話だということです。「野党はいまだに何もわかっちゃいないんだ」と。

 ちなみに、このときの衆議院は「ワクチン無料キャンペーン」の直後の総選挙で、民意と異なる「普通選挙否定派」の政友会がなぜか圧勝して、絶対多数を占めていました。この「笑い」の意味するところは、与党・政友会も内務省の工作を承知だったということになります。

 日米欧諸国が、社会主義の台頭を抑えるために、共同歩調をとって、「スペインかぜ」をでっちあげたというようなことが可能だったかどうかはわかりませんが、そういうことが行なわれたと考えざるをえません。その前提でいけば、これまで「スペインかぜ」に挑んだ研究者が必ず行き詰った課題「なぜ人々は『スペインかぜ』を忘れたのか?」には簡単に答えられます。

 「スペインかぜ」そのものが虚構だったから…。

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■今回の 新型インフルエンザ騒動は、国際機関がらみの 暗躍であったが、スペインかぜは、日本政府の反共キャンペーンだったということか。ソ連をはじめとする社会主義体制の成立は、皮肉なかたちで世界史を劇的にかえていったわけだ。

【かきかけ】
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