プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

ブロとも申請フォーム

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

内田樹『先生はえらい』再論【追記あり】

■旧ブログで3年ちかくまえにかいた「内田樹『先生はえらい』」の補足記事。■先日、そのコメント欄に転載しておいたブログ記事「「教員」は「先生」ではない」『数学屋のメガネ』(これまた3年まえ)を再掲。


……
「先生」というのは自分から名乗るものではないのだ。「師と仰いでくれる弟子」がいて初めて「先生」になるのだということだ。「教員」を「先生」と呼ぶのに違和感があるのは、こちらから「先生」と名乗ることへの違和感だったのだ。相手が勝手に「先生」だと思ってしまうのは仕方がないが、こちらが図々しく「先生」と名乗るのは間違いなのだと思った。

「教員」というのは単なる職業だ。普通の人の中に尊敬できる素晴らしい人もいるように、「教員」の中にも素晴らしい尊敬できる人物もいる。しかし、それよりも圧倒的にたくさんの教員は平凡な一市民であり、尊敬できる人物と同じくらいに、どうしようもない軽蔑にしか値しないようなものもいる。それは、普通の人間の中に、一定の割合でそのような人物が混ざっているように、「教員」の中にもそういう人間がいるのだ。

全ての教員に「先生」を期待するのは幻想だし、そんな期待をされたら、社会的な職業として成り立たなくなる。「教員」は一定の技術と知識を持っていれば勤まるという職業でなければならないのだと思う。そして、そういう普通の教員が勤まらないような状況がもしあるとしたら、それは教育の制度の方にこそ問題があるのだと考えなければならないだろう。僕は、現在の教育の問題というのはそれだと思う。「教員」の資質の向上で何とかなるものではないと思っている。
……


……
教習所の教官からは、運転免許が取れるだけの一定水準の「定量的な技術」を学ぶ。しかし、F1ドライバーのシューマッハーからは、「技術は定量的なものではない」ということを学ぶ、と内田さんは語る。この具体的な中身としては次の二つをあげている。

「一つは「運転技術には「これでいい」という限界がない」ということ、今ひとつは「運転は創造であり、ドライバーは芸術家だ」ということです。」

この違いが、「教員」と「先生」の違いだと僕は感じた。そして、職業としての教員は、この違いを埋めることは原理的には不可能だと感じる。「教員」は「教員」のままでは「先生」にはなれない。「教員」としての姿でない時に、学ぶ方が「先生」を感じる瞬間が来るのではないかと思う。そのあたりの感覚を内田さんは次のように語る。

「教習所の先生は「君は他の人と同程度に達した」ということをもって評価します。プロのドライバーは「君は他の人どう違うか」ということをもってしか評価しません。その評価を実施するために、一方の先生は「これでおしまい」という到達点を具体的に指示し、一方の先生は「おしまいということはない」として到達点を消去して見せます。
 二人の先生の違うところはここです。ここだけです。」

「教員」の仕事は、職業であり、それは到達点を指示しないではいられない仕事だ。到達点を消去してしまったら、責任を果たしたことにはならないだろう。しかし、「先生」という師は、それこそが大事だと内田さんは語る。
……

---------------------------------------------
■この文章については、つぎのようにコメント(メタ言語に対するメタ言語)した。

■ある到達点に達したことを確認して「卒業」させる教員と、限界のないことをさとらせる芸術家・職人はだの「先生」とが異質なのは当然。■しかし、後者の方を「真の意味での先生(師匠)」と規定するというのは、理想化・美化された教育者像(際限ない学習過程=権力構造の正当化)だし、公教育などを不当におとしめているとおもう。

■この直感をえてから数日たったが、基本的に見解をかえる必要をみとめない。■引用した数学者氏は、「教員」と「先生」を理念型として抽出しているだけで、別にまちがったことをいっているわけではない。
■しかし、少子化など いわゆる「教育市場」の縮小と呼応するように「生涯学習」論が浮上したとおり、教員たちは一生まなばせたがっている(笑)。学齢期をおえても、社会人入学してくれる学生はありがたいし、職業生活をおえてから、あるいは家事のあいまに「生涯学習」をつづけてくれる受講生は、このうえなくよろこばしい。■つまり、「先生」を理想視することで、みんなが創造的な芸術家をマネて、しぬまで求道してくれれば、際限のなく市場拡大をしていく潜在性をもっていると。


【追記 22:55】
■ま、それはともかく、「「教員」の仕事は、職業であり、それは到達点を指示しないではいられない仕事だ」という、数学者さんの認識はどうだろう? ハラナがイメージする学校とは、かなりちがう。なぜか?
■いまはなき、思想家 イバン・イリイチは、タイピスト養成の専門学校のような、「到達点」がある教育空間と、喫茶店みたいなところで ひらかれる自主的な学習会みたいなものを対照化して、議論を展開していたように記憶する。公教育は、すわって座学を一定期間くりかえしていれば、タイピング技術がみにつくみたいな詐欺商法をくりかえしているってね。■イリイチからすれば、マニュアルにそった集中的な練習によって一定の技術がみにつく空間と、学習者が自分たちの必要性に応じて臨機応変に講師やアドバイザーをみつくろって、やりたいだけやるという自習空間とは、全然異質なものだし、公教育は教育目的と手段が中途半端で、半強制的な収容所になっている、っていいたかったわけだ。■以前指摘したとおり、大学をはじめとして、全部の授業の前後には予習復習が自明視される(「大学や高校の「単位」理念」)とか、一定時間の着席(受講)によって、自動的に知識・技能がみにつくなんて、ウソ八百をならべたて、その実、「到達点」なんぞの確認はデタラメにゴマ化されて、トコロ天式におしだされるシステムになっている。
■だから「「教員」の仕事は、…到達点を指示しないではいられない」ってのは、タテマエの偽善だとしかおもえない。■いや、この数学者先生は、それを実践されているんだろうが、ハラナが学生時代に、「一定した水準に到達したことを証明する」ような単位認定をされた記憶がない。すくなくとも、小中学校に単位認定による原級とめおきなんて制度はなかったしね。「到達点を指示しない」空間ばかりだった。

■こういった批判と矛盾するようだが、さきにのべたとおり、公教育は「はてしない学習過程」であっては、ならないとおもう。■大学院の博士課程はともかくとして、小中高校はもちろん、大学の学部課程だって、そこは絶対「無期懲役」であってはならない空間だとおもう。そこは、学問とか武道や宗教の修業の空間ではないからだ。
■いや、そりゃあね、物理化学の実験であるとか、数学の証明法とか、哲学的な社会理解とかにおいて、「「これでいい」という限界がない」とか、知的営為が「創造」「芸術」なんだって実体験する機会を公教育で実演できるような名人芸を否定するもんじゃない。■しかし、学問とか研究とか、そういった方向性にむかうことをのぞまない生徒たち、そういった方向性にむかない生徒たちが、「ますます、わけがわからなくなってきた」といった混乱におちいることを、理想の教育であるかのような誤解は、まずいとおもう。すくなくとも、小中高校でやるべきではない。小中高校の授業では、「ここまでは、わかった」という知的整理のついた実体験によって、自信をつけさせるべきなんであって、「自分は全然わかっていない(まだまだだ)」なんて、無力感とか不安感をかきたてるべきでない。
■有名な教育者が、いい線をいった解答をだせる優等生を、サディスティックにイジメぬくのを、理想的な教育であるかのように喧伝する風潮があったときくが、「生徒のだれだって、充分理解しくつしているわけではない」といった水準で、サディスティックなエセ教育空間を演出することは、存外簡単だ。ちょっと有能な教師であればね。■しかし、そんなかたちで「まだまだ」意識をうえつけたって、それは「専門家にはかなわない」という、卑屈な権威主義をみにつけるだけで、せいぜい うまくいっても、一部の生徒が「オレも、あんな風にかっこよくなりたい」といった野望をいだくだけだろう。
■いや、内田先生やら、数学者さんたちは、そんな ひどい教師ではないだろうし、イメージする教育空間も、サディスティックなものではなくて、生徒・学生おもいのものだろうとはおもうが、「まだまだ」感の醸成は、基本的にイジメなわけだ。■もちろん、スポーツや囲碁・将棋みたいな、勝負事のばあい、「まだまだ、おまえはあまい」と、おもいしらせる先輩たちは、いい教育者だろう。しかし、それは、一部のエリートたちのための修業空間にのみふさわしいのであって、大衆の普通教育には全然なじまない性格だ。

ダグラス・ラミスという政治学者が、『影の学問、窓の学問』というエッセイ集のなかで、大学教育に対して、「学生たちは有識者になるためというよりむしろ「知識を怖れる人」になるべく教育される…学生たちはこれらがどれもきわめて重要な研究テーマであって、社会の上の方には各分野についての専門家がおり、この人たちの意見は尊重すべきであることを学ぶ。知的エリートに対する服従を教え込まれるわけだ…」といった、痛烈な皮肉をくわえていた。■「まだまだ修行不足…」感の醸成は、こういった結末になりがちだ。
■きのうふれたように、もし法律家がよってたつ法的な知識が、小学生にも理解可能な程度まで分解できるのなら、その努力をおこたることによって権威主義を維持しつづけている専門家たちは、卑劣な連中ということになる〔「「賢者の表現」と「相対的愚者の理解力」問題2〕。■おなじように、「まだまだ」感が、おもわせぶりに、知識の透明化をおこたる神秘主義の産物なら、「はてしない学習」の必要性は、こういった詐欺行為のもたらしたものにすぎない。■すごくかしこい教師が善意と熱意をもってすれば、雲散霧消するような、くだらん「不透明さ」ということだ。

■学問の世界とか、西洋古典音楽の世界とかが、「過去の蓄積を全部ふまえたうえで、ごく一部オリジナルな要素をつけくわえる」という作法にそっていることは、たしかだ。その意味では、「君は他の人どう違うか」とか、「「おしまいということはない」として到達点を消去」するといった姿勢をとることには、合理性がある。そういった方向性では、たしかに学問や古典音楽に原理的に限界はないからだ。かりに過去の蓄積を全部マスターしたにしても、それで「修了」ではなくて、それがスタートラインとして、個々人のオリジナリティがとわれるのだから。■しかし、そういった「無限」性が、大衆への普通教育を前提にした公教育に全然なじまないことは、あきらかだ。学校は、天才たちの育苗機関ではない。天才をつぶす権利は教師にないが、天才のために最大限の努力をはらうとかいって、ほかの生徒を犠牲にする権限などない。
■公教育という空間では、「「これでいい」という限界」を明示し、その到達点をクリアした生徒から「解放」する義務が教師にはある。いや、そういった「到達点をクリア」することが、ホントに必要なことかどうかさえ、まともに説明責任の対象にされたことがないぐらいだから、拘束している合理的根拠ぐらい説明しないとね。


■それと、内田先生や、そのまた先生たちは、入門者が想像しえない次元にみちびかれる宿命にある以上、入門者たちは、特定のサービス商品を購入するかのように、定量的なとりひき行為をなしえない。つまりは、指導者は、入門者たちのゆくすえを すべてみとおしているが、入門者たちは、自分たちの運命を全然把握しえない、といった、教育観をおもちのようだ。■いや、「第三者による定量的な外部評価とかいったものが、全然なじまない空間なんだ」とかいった原理論的な次元で、こういった側面・本質をつきかえすのは、わるくない。■以前もふれたとおり、教育・学習の成果なんてものを、「短期間で定量的に把握できる」なんてのは、幻想にすぎないからね。■しかし、学習者のゆくすえを指導者が全部おみとおしなんても、幻想だとおもうぞ。学習者がどっちにいくのかなんてのは、基本的に予測不能だ。学習ってのは、本質的にミスコピーなんだから(笑)。
■そして、ミスコピーついでにいうなら、以前もふれたとおり、ごくマレにだが「出藍の誉れ」が出現する。■内田先生あたりは、それは、師匠師匠が到達した水準に、孫弟子がたまたま到達しただけ、とか説明しそうだが、歴史をかえる天才たちは、師匠師匠師匠といった連鎖では説明できない、異次元を自力で突破してしまっている。■この「突然変異」も、指導者たちは入門者たちのゆくすえをみとおしているという幻想の致命的破綻を立証している。



●「「先生」とよばれる「身分」
●「先行者にして継承者としての教育者(内田樹氏の教育哲学)3
スポンサーサイト

テーマ : みんなに紹介したいこと - ジャンル : ブログ

タグ : 師匠 学問

<< 常野雄次郎氏の「君が代」不起立問題への反応は、ふかい | ホーム | おもいやり用地確保のための偽装公共工事(?) >>


コメント

ただの思い付きです。

教員の員、教官の官は意味があるのかな、と思ったことがあります。員は人数、官は公的な人。ちょっと格がちがうのだぞと。そういえば、体育教員の控室は「体育教官室」といったし、「教官、私はドジで間抜けな亀です」というのもあったような。

先生は、聖職の臭いか、二十四の瞳の香りですね。また、自分で責任をとらない職業の人々を先生ととらえたことがあります。裁判で負けても続けられる弁護士、学ぶことを度外視しいる教員、手術で死なせた医師、公約もきにしない政治家、みんな先生といわれているから。

「求道」は、大きなお寺でない良寛さん、地べたすがりつくガードマン。市場、金をかけない場でならありですよね。疲れるけれど。

それとも、「求道」というの発想自体が罠にかかってしまっているのかしら。

またまた【かきかけ】のまま、コメントが(笑)

bananaさま

■私立の中学高校でも、体育の先生方だけは「教官室」なのでしょうかね?(笑) ■それはともかく、「員は人数、官は公的な人」という、ご指摘は、そのとおりだとおもいます。
■旧ブログで、だいぶまえに「「先生」とよばれる「身分」」(http://tactac.blog.drecom.jp/archive/231)で、試論を展開してみました。■今回、そこと うまく接合できるか微妙ですが。

■「求道」(グドー)ってのは、うつくしそうですけど、たとえば延暦寺の「千日回峰行」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E6%9A%A6%E5%AF%BA#.E5.8D.83.E6.97.A5.E5.9B.9E.E5.B3.B0.E8.A1.8C)とか、はっきりいって病気ですね(笑)。■いや、関係者がいかって、かきこんできても、ゆらぐことなく 反論できます。「だれも、そんな苦行してくれって、たのんでないって。だれも、そんなことで すくわれないって」ってね(笑)。そんな超人的なムリがきくなら、何十人もの苦境のひとびとをすくえそうなのに、まったくのムダ。■ずっと、「アホらし」といいきれずに、もちあげつづけるメディアとか、どうかしている。
■ま、ともかく、学者さんや坊さまたちは、「極道」するのが、おすきなようで。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 BLOG TOP 


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。