■大阪で少年時代をすごしながら、
在日問題に事実誤認しかいだけない橋下府知事は論外として、
歴史認識として大問題をかかえる社会学者 宮台真司など、たわけた妄言が、思想信条の自由だの、表現の自由だのといった理念に「保護」されてしまう状況に対して、キツいお灸2題。
【萬物相】全財産を寄付した元慰安婦2010年03月28日10時26分 / 提供:朝鮮日報
「忘れないようにしょっちゅう思い返し、歯を食いしばって覚えてきた。すべて話してやろう」。旧日本軍の元従軍慰安婦・金順岳(キム・スンアク)さんは、つらい過去を口述し、『わたしの気持ちは誰も分からない』を2年前に出版した歴史の生き証人だった。金さんは今年1月2日に81歳でがんにより死去したが、必死の思いでためた全財産1億826万ウォン(約880万円)は、親がいない子供の支援や、従軍慰安婦歴史館建設のため寄付されていたことが、このほど明らかになった。
慶尚北道慶山市の小作農家に生まれた金さんは16歳の時、「紡績工場に就職させてやる」とだまされ、中国にあった旧日本軍の従軍慰安婦にさせられ、花盛りの時期を踏みにじられた。「部屋の戸に開けてあった小さな穴から、あるじがこれくらいのおにぎりを3-4個入れてくれた。それを食べて一日中、相手をした。日本のやつらにとって、わたしたちは人間ではなく、けだものだった。人間だと思っていたら、あんなことはできない!」。
金さんは光復(太平洋戦争終戦)後、家政婦などをして、やっとの思いで生計を立ててきた。金さんの帰りを待ちわびていた父親の死に目にも会えなかった。1997年に故郷に戻った金さんは、2000年に旧日本軍の元従軍慰安婦被害者として登録され、毎月約80万ウォン(約6万5000円)の生活支援金を支給された。金さんは昨年末、がんの手術前に一人息子を呼び、「葬式を済ませて残った財産は寄付しなさい」と、遺言した。日ごろから「戦争がすべての苦痛を作り出した。戦争がなければ子供たちは幸せになる」と話していたそうだ。
ノーベル文学賞を受賞した日本人小説家の大江健三郎氏は「慰安婦問題は、日本政府が心から謝罪し、補償して初めて解決する。日本の民間基金を断固として拒否し、真の謝罪を要求する元慰安婦たちを見て感銘を受けた」と言った。元慰安婦たちは1992年から毎週水曜日に在韓日本大使館の前で日本政府の公式謝罪や賠償を要求する「水曜集会」を行っている。今年1月13日の水曜集会で900回を超えたが、存命している元慰安婦は85人に減った。
金さんの寄付は「20世紀最大の人身売買罪」を公式謝罪や法的補償することなく、民間基金だけで清算しようとしている日本政府に、無言のメッセージを残した。金さんは自身の人生を真っ暗にした貧しさが身に染み、財産の半分を親がいない子供たちの支援のため提供した。残りはまだ謝罪していない日本の過ちを死んでからも証言しようと、慰安婦歴史館の建設に寄付した。日本は、金さんの遺言に込められた無言の抗議に恥を知るべきだ。
朴海鉉(パク・ヘション)論説委員 在日同胞差別に立ち向かった権禧老さんが死去2010年03月28日11時46分 / 提供:中央日報
「私に民族差別の鬱憤を抱かせた卑劣な小泉刑事の口を通して、公権力による不当な民族差別があったとのことを明確に明らかにし、深く謝罪しろと要求しました。…警察の説得要請で事件現場に来た母が『禧老、きれいに死になさい。お前は私が産んだ子だから日本の警察の手で死んではいけない。ダイナマイトで死ぬのはやめて、持っている銃で死になさい。お前の遺体は私が納めなければいけないから』と言って自分で作った韓服(ハンボク)を渡してくれた」。
1968年2月20日、在日同胞差別に抗議し、日本静岡県清水市で暴力団員を銃で殺害した後、旅館の宿泊客を相手に88時間にわたる人質劇を繰り広げた権禧老(クォン・ヒロ)さんの回顧だ。99年9-10月、19回にわたり中央日報に掲載された獄中手記「母さん、憎しみを越えた」に出てくる部分だ。
権さんが3年前から前立腺がんで闘病生活をしていたが、26日午前6時50分、釜山東莱区(プサン・トンネグ)ボンセン病院で死去した。82歳だった。
故人は1928年、日本静岡県で釜山が故郷の埠頭労働者クォン・ミョンスルさんとパク・ドクスクさんの間の長男として生まれた。権さんは1934年、清水小学校に入学したが、‘朝鮮人’という理由でいつも蔑視された。
「弁当に入った麦飯を見て日本の子どもたちがからかったのでけんかをした。しかし担任の先生は有無を言わせずスリッパを脱ぎ、私だけを殴った」。3年生の時に起きた弁当事件だ。
結局、権さんは小学5年で学業をあきらめ、名前を8度も変えながら職場を見つけたが、いつも‘朝鮮人’であることが周囲に知られ、職場から追い出された。
故人は1968年2月当時、借りもしていない金を返せと脅迫してくる暴力団の親分に「朝鮮人、汚い豚」と悪口を浴びせられ、暴力団員を殺害した。2時間前に叔父・叔母ら家族を集め、「叔父がヤクザに日本刀で刺されるなど苦しんでいる同胞がたくさんいる。命を賭けて奴らと戦う」と話した後に繰り広げた行動だった。権さんは翌日未明、18人の宿泊客がいた近くの寸又峡温泉村のふじみや旅館に篭城、銃とダイナマイトを持って88時間にわたり警察と対峙しながら在日同胞の差別撤廃を要求し、結局、逮捕された。
こうした権さんの人生は、1992年に柳仁村(ユ・インチョン、現文化観光体育部長官)、イ・ヘスク主演の映画「金の戦争」の素材になった。
1975年に無期懲役刑が確定して服役していたが、90年初め、死刑囚を対象に教化活動を行っていたパク・サムジュン僧侶を中心に釈放運動が起こり、韓日外交問題にまで発展した。99年に仮釈放形式で解放された後、韓国に永久帰国した。
済州市(チェジュシ)が「権嬉老ムクゲ公園」を造成し、当時の安相英(アン・サンヨン)釜山市長が名誉市民記念金メダルを授与するなど歓迎行事が相次いだ。しかし権さんは「私は英雄でもなくて愛国の志士でもない。理由もなく私のような同胞を差別して苦しめた悪い日本人と公権力に反抗した罪で監獄で過ごした不幸な人間にすぎない」と語った。
暴力団員を殺害した行為については「いかなる人も殺人を正当化できないように私が犯した行為も同じだ」と反省した。日本についても「私に本当に有難くしてくれた人たちも多い。差別をする日本人だけを憎む」とし、韓国民の反日感情を警戒したりもした。
権さんは4歳の時に父を失い、その3年後、母が金(キム)氏と再婚し、姓が金に変わった。このため映画の題名は「権の戦争」ではなく「金の戦争」となった。帰国後、住民登録証を受け、権という姓を取り戻した。
権さんはサムジュン僧侶の紹介で少年院などを訪れ、教化活動を行ったりもした。しかし2000年、内縁女性の夫に暴行を加えた事件など、31年を超える獄中生活による性格障害行動で保護監護処分を受け、世間の関心から遠ざかった。
26日、権さんの死を聞いてソウルで駆けつけたサムジュン僧侶は「2週間前に最後に会った時、『11年間、故国でよい時間を過ごした。国民に感謝の気持ちを伝えてほしい』と話していたが、それが最後になるとは思っていなかった」と語った。
葬儀は家族葬儀(三日葬)で行われる。28日午前8時30分に出棺、釜山ヨンラク公園で火葬される。故人の遺言により、遺骨の半分は祖先の故郷である釜山影島(ヨンド)沖にまかれ、残りは日本静岡県の母の墓に埋められる予定だ。----------------------------------------------
■韓国等のネット右翼のたぐいも歴史認識上まずいナショナリストだし、朝鮮政府が、こういった差別の歴史を「悪用」して、防諜活動や誘拐事件等をくりかえしてきたのだとすれば、それは はきちがいなのだが、すくなくとも、かれらから激怒・侮蔑されるような日本人が大量にいたこと、いまも たくさん伏在しているだろうことは、かなしいかな現実だとおもわれる。■そうでなかったら、なんで、橋下・宮台といった人物が、人気政治家・識者として、ありがたがられるのか? かれらの事実誤認は、単なる不勉強による不見識といった軽侮でとどめられる性格の問題ではなく、そういった けしからん人物が 社会的にほうむられることなく、陰に陽に 影響力を行使しつづけられるという現実と、その悪影響として問題化しなければならないのだ。
■いわゆる「従軍慰安婦」という性的奴隷を 事実上 公的に 収容・収奪していた事実は、さまざまな資料から直接・間接的に 立証されているわけだが、それを教科書にかかせない、学校現場で おしえないことが政治的に妥当だといった判断がまかりとおる、野蛮な国家。■そして、歴史家たちが必死に史料あつめをしないかぎり、そういった総動員体制の実態がうきぼりにできない=「死人に くちなし」状態がまかりとおってきたというのは、とりもなおさず、敗戦時に、ことごとく公文書や私的メモ類を焼却=隠ぺいしてきたからに ほかならない。組織犯罪をくりかえしながら、その事実をかくそうと意図的にふるまった組織犯罪。軍人を中心とした日本の官僚たちとは、そういった二重の権力犯罪の主犯・共犯者だったのである。■そして、そういった実態について、大学の一部の教員などをのぞけば、ほとんど実態をしらされないままで社会人になってしまうという、おそるべき知的野蛮がまかりとおってきた。その主犯とは、もちろん、旧文部省をはじめとする、政府・自民党なのだが、無自覚な共犯者とは、地歴科教育法などにたずさわって、政治性のたかい問題から学生の視線をそらしつづけた(自覚もなく)大学教員たちである。
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テーマ : 韓国 - ジャンル : 海外情報
タグ : ナショナリズム1984年真理省ハイパー独裁公文書
以前もとりあげた本ですが
以前もとりあげた本ですが、『告発<従軍慰安婦>』(同時代社)から引用いたします。
否定者たちは、「焼却しろ」「処分しろ」という公文書も発見されていないから、処分命令が上部から出たという証拠にならない、として「証拠を出せ」と云うだろう。
それならば、ある。本書第八章に出る、「第四十八師団戦史資料終戦状況」である。師団長中将山田国太郎が復員庁総裁に送った報告に「第四十八師団戦史資料は停戦時、其の大部を上司の指令に基き処分し、又残部も豪州軍に提出せしを以って、正確なる資料殆ど皆無なり」(片カナを平仮名に改む)とある。
管見によれば、上司の指令にもとづき、資料を処分した、という公文書は、今のところこれ一つだけだと思われる。他にもあればご教示願いたい。
(172~3ページ)
公文書を処理しきれなかった権力の足跡
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/29/11
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/nankin-no-nihongun.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E8%B3%87%E6%96%99%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC
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