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Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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新型インフルエンザ騒動の怪45=豚インフルエンザ報道を検証する(第37回)日本でのスペインかぜ

シリーズ「新型インフルエンザ騒動の怪」の続報。■今回も、“世界の環境ホットニュース[GEN]”の最近のシリーズ “豚インフルエンザ報道を検証する”の最新版を転載。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
世界の環境ホットニュース[GEN] 749号 10年03月29日
……
        豚インフルエンザ報道を検証する(第37回)

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

第37回 日本でのスペインかぜ               原田 和明

 アスピリンが足りなかったはずの日本でも「スペインかぜ」パンデミックが起きたのはなぜかという問題を、「スペインかぜ」に関する最後の課題としたいと思います。そのことを考える上で参考になりそうなのが、欧米と日本での流行のタイミングのズレです。

 北海道小樽市がまとめた「小樽市新型インフルエンザ対策行動計画(別冊)=2006年2月」に、1918~20年にかけて 大流行した スペインかぜの概略 年譜がまとめられています。(以下引用)

●1918年(大正7)   世界の状況        国内の状況 
 3~6月          第一波          流行なし
 9~12月         第二波          流行の拡大

●1919年(大正8)
 1~4月          小休止         流行継続
 3~10月          第三波         小休止
 10~12月         順次終息        流行再興

●1920年(大正9)
 1~4月                       流行継続
 5月~                        順次終息

 【備考】
 「日本国内の流行は世界の第二波から始まり、終息は1920年春過ぎであるが、その後も郡部で致死率の高い流行が散発的に見られた。世界の第三波終息は1919年冬とされているが、日本の第三波の開始は世界の第三波終息頃から始まり、終息も世界に半年ほど遅れた。通常、スペインかぜは世界的に1918年から1919年に 流行したと 言われるが、日本の場合少しずれて、1918年から1920年に流行したと考えられる。」
(引用終わり)

 最大の特徴は、欧米の流行が3度あったのに、日本では2度だったということです。そして流行の時期も微妙に異なります。欧米の第一波のときに、日本ではなぜ、「スペインかぜ」は流行しなかったのでしょうか? 単に地理的な距離の問題で、日本は難を逃れたのでしょうか?「陸軍軍医学校50年史」によると、欧米の第一波(1918年3-6月)のとき、日本でも陸軍には大流行があったと記録されています。(以下引用)

 今次の世界流行は 一昨年(1917年)に始まり、我が陸軍にありては、大正7年(1918年)春期 2,3の師団に小流行の兆しありしも、同年5月より7月に亘り、各地師団ほとんど一斉に大流行を来たし、患者数5万318名を算せしが、死亡者はわずかに 3名に過ぎざりき。(引用終わり)

 一方、国民の間に流行し始めたのは、陸軍に流行性感冒(インフルエンザ)が蔓延した後でした。(神戸新聞 1919.5.17より以下引用)

 感冒は昨年(1918年)の8月上旬 山梨、福島の両県下に発生したのを端緒として漸次各府県に及び驚くべき猛烈な勢いを以て忽ち全国を風靡したかの観があり、就中其の最大流行期とも見るべき昨年10月上旬から 本年3月上旬に至る…(引用終わり)

 1918年の7月までは、国民には 大流行はなかったのに、なぜ陸軍にはインフルエンザが蔓延したのでしょうか? 陸軍に入営するとインフルエンザに罹るという状況から、陸軍に何がしかの原因があるかもしれないということには軍医学校も気付いていたようです。「陸軍軍医学校50年史」に次の記述があります。(以下引用)

 而して一昨年来の大流行は毎常兵員の入営を機とし、爆発するを例とし初年兵及び召集兵は古兵に比してその罹患率すこぶる高く、その死亡率は 約4倍の多きを示せり。(引用終わり)

 こうなると、インフルエンザに罹る原因は入隊時に行なわれていた何かに関係がありそうですし、重症化の原因も、陸軍の中でベテランよりも初年兵及び召集兵が優先されていたことを調べることで何かわかるかもしれません。私は、入隊時に行なわれていたのは予防接種ではないかと考えています。「陸軍軍医学校50年史」より以下引用。

 本病の予防に関して飛沫伝染による危険の防御に努むるをもって要義とするほか、我が陸軍にありては諸種の研究成果に鑑み、本校調製にかかる「インフルエンザ菌および肺炎球菌混合予防液を広く軍隊に使用し、防疫の手段を講じつつありといえども、未だ所望の成果を収むる域に達せず。(引用終わり)

 今回の「新型」インフルエンザ用ワクチンと同様、ワクチンが十分量確保されていない場合、優先順位が付けられたはずです。この「予防液(ワクチン)」が入営時に多分、全員に接種されていたのではないかと推測されますが、これが初年兵及び召集兵の罹患率や死亡率が高いことと関係があるのではないかと疑われます。こうなると、日本での「スペインかぜ」は陸軍軍医学校が調製した「予防液(ワクチン)」が発生源だった疑いが出てきました。

 しかしながら、国民の間で流行し始めた1918年の夏は欧米でも第二波のタイミングですから、この時期だと海外からウイルスが持ち込まれた可能性も十分あります。次に国内の被害状況を見てみます。以下、陸軍兵士の統計は「陸軍軍医学校50年史」より引用、国民分は「内務省衛生局編・流行性感冒『スペイン風邪』大流行の記録」より引用します。

●陸軍兵士の罹患状況(陸軍軍医学校調査)

 流行期間         患者数     死亡者数
 1918年5月~7月      5万 318名     3名
 1918年10月~19年1月   3万8481名    555名(死亡率1.44%)
 1919年11月~20年3月   3万3850名   1693名(死亡率5.00%)

●全国民の罹患状況(内務省調査)

 流行期間      患者数    死亡者数  患者百人当りの死亡者
 1918年8月~19年7月 2116万8398名 25万7363名 1.21(4.50)※
 1919年11月~20年4月 232万3479名 12万4660名 5.36(2.20)※
 1920年8月~21年7月  22万4178名   3698名 1.65(0.06)※
          ※( )は人口千人当たりの死亡者数
(引用終わり)

 最も驚くべきは、1918年の患者の多さです。1920年の日本の人口は約5600万人ですから、国民3人に1人がスペインかぜにかかったことになります。「況や西班牙感冒(※スペインかぜ)の日本に輸入せられ、邦人の之れに感染せざる者殆ど無かりしが如く、戦後欧洲のデモクラシーの思潮も亦日本の有らゆる階級に浸入し…」(万朝報 1918.12.17)という表現も さほどオーバーではなかったことでしょう。しかし、問題は死者数です。

 大阪市電では欠勤者の多さから運行に支障が出ているとの次の記事があります。
(以下引用)

 「昨今は従業員の補充つかずして四百台を運転せしむるに過ぎざりしに従業員等感冒に罹りて欠勤せる為三百四十台位しか運転出来ざる始末なり」(大阪朝日新聞 1918.11.23、引用終わり)

 しかし、運行支障の 原因は あくまで乗務員の「病欠」であって、死亡による「欠員」では なさそうです。事情は 国鉄でも 同じでした。(中外 商業新報 1918.12.28より以下引用)

 国鉄旅客成績 収入約四割増
 偶々各地に悪性感冒(※スペインかぜ)流行して旅客の出遊を阻碍せる一方従業員の罹病により輸送上大に支障を来したるも之を大体より見れば格別の影響を齎すに至らずして旅客輸送の成績は終始好況を持続したり。」(引用終わり)

 河北新報(1918.12.21)には、インフルエンザの流行状況について、実にのんびりした記事が掲載されています。仙台税務署が管内四郡の酒造業者を調査したところ、雇人350人中230余名がインフルエンザに感染していた。中には雇人20人のうち16人も休んだため社長自ら米洗いをしただの、米洗いをした夜に雇人が全部倒れたので翌日の仕込みを中止したところもあったなどのエピソードが紹介されています。

 どうも、この第一波のときには、日本人は「ただの風邪」くらいにしか受け止めていなかった のではないかと思えてなりません。河北新報(1919.1.26)の記事では、罹病しても重症化の例は少なかったことをうかがわせます。(以下引用)

「彼等の語るを聞けば徳治郎は日雇業なるが 客臘 親子夫婦揃って流行性感冒に罹りたる際 鍋釜茶碗の果てまで売払い尽し 漸く病気快復せるところへ今度の大雪に振り籠められ」(引用終わり)

 これらの記事からはとても内務省が伝えるような25万人もの死者があったとは結びつきません。大流行の原因はこの年、全国で米騒動が起きたように、米価が急騰したことによる国民の劣悪な栄養状態で一応説明はできます。しかし、日清戦争での 死者1万強、日露戦争での 死者約8万人に匹敵するほどの死者(1918年11-12月の2ヶ月だけで約7万人)が、身の回りで発生しているにしては、インフルエンザについての当時の新聞記事が、とてもお気楽な感じなのはいかにも不思議です。

「死者25万人」という内務省の発表は信用できるのでしょうか? 当時も大量死を伝える記事は内務省の集計した数値ばかり
です。(以下引用)

 大阪朝日新聞 1918.12.15(大正7)紀伊版
 奈良県下の感冒調査 患者二十三万以上、 内死亡者一千七百十七人

 大阪朝日新聞 1919.2.3(大正8)山陰版
 島根県で 感冒死者 五千人 人口の過半数は罹病(※患者に対する死亡率は1.8%)

 神戸又新日報 1919.2.24(大正8)
 県下の保健調査 流行性感冒と死亡率
 「昨年秋冬の候本県下に流行猖獗を極めた例の流行性感冒が県下の死亡率に何れだけの変調を来したかと云う事に就き、昨年と一昨年とを比較した最も正確な県下の死亡者数を最近県衛生課に調査した結果に依ると大正六年度の全県下の死亡者五万二千六百六十九名に対し昨年は六万八千五百五十四名と激増している。」
(引用終わり)

 なぜか地方のデータが少し公表されただけで、東京や大阪のデータは当時公表されていません。「内務省衛生局編・流行性感冒『スペイン風邪』大流行の記録」に収録されているデータは、神戸新聞 1919.5.17(大正8) に登場しています。(以下引用)

 「其の最大流行期とも見るべき昨年10月上旬から 本年3月上旬に至るまでの全国の患者総数は実に2094万7733人に達し 全国の人口を6千万人と見ても約三分一以上が此の感冒に罹った訳で、其の内死亡者のみにても24万6368人という数字を現している。」(引用終わり)

 死者多数という発表データそのものが当時の状況を伝える新聞記事と整合性がとれませんし、どうみても内務省の発表の仕方やタイミングは不自然です。ところが、翌1919年になると、多数の死者が東京で出始めています。それも肺病を伴っていたようです。(以下引用)

 「昨年四五月の候、例の『三日風邪』と称したものを先駆として、漸く此の西班牙風邪(※スペインかぜ)が蔓延し、十月頃からは愈よ其の性質が獰悪になって、今や非常な伝播性を以て日本人を恐怖せしめて居る。東京のみでも一月中で昨年同月の死亡率に倍加すると云う有様、火葬場には棺桶山堆し、実に未曾有の悲惨事を現出した。」(万朝報 1919.2.11)

 「東京帝国大学医科大学講師医学博士 福士政一氏(第十七回報知婦人講演会に於て)
 多くの患者は医師が診断する時分には既に立派な肺炎に罹って手遅れの状態にあるとのことであるが之では死ぬ人の多いのも当然である。尚又既に流行性感冒や肺炎に冒された場合には相当医師の手当を受け家に静臥して絶対安静を遵守することが最も必要である、それ等の注意を怠らなかったら多くは救かるものである」(報知新聞 1919.2.6
、引用終わり)

 スペインかぜによる月別の死亡者数の統計は、「内務省衛生局編・流行性感冒『スペイン風邪』大流行の記録」を基にして、東京都健康安全研究センターが「日本におけるスペインかぜの精密分析」(東京都健康安全研究センター年報56 P369-374,2005)を発表しています。
 http://www.tokyo-eiken.go.jp/SAGE/SAGE2005/sage.html

 死亡者数の月別推移に現れている第一波(1918年秋~19年春)にみられる2つのピークのうち、18年11月のピークは裏づけが とれませんが、19年2月のピークはあったと考えられます。これは日本でアスピリンが普及するタイミングと一致します。というのは、戦時中の日本では「(アスピリンは)原料の欠乏と労働の不足により戦前に比すれば遥に高価なり。其価格も十倍乃至三十倍騰貴し」(神戸又新日報 1917.7.4)という状況だった からです。そして、戦後すぐに輸出が解禁となり、アスピリン価格は 戦時中の約 1/3 の相場にまで下がりました。(報知新聞 1918.12.6)

 第二波(1919年秋~20年春)もあったと考えられます。まず、陸軍省医務局衛生課が「陸軍各師団の流行性感冒患者状態」を発表しています。

 1919年12月16日現在 計死者189(患者数5688)大阪朝日新聞(1919.12.19)
 1920年1月3日現在  計死者547(患者数11941)満州日日新聞(1920.1.16)


 他にも死亡者多発をうかがわせる記事があります。(以下引用)

 「寄宿内に於ける生活はさして改善されているとも思われない故に最近の猛烈な流行性感冒の如きは各紡績内に猖獗して当市某工場にては数十人の死亡者さえ生じた程である」(大正日日新聞 1920.1.31)

 「大正9年(1920年)3月、衛生組合役員協力のもとに予防注射を実施したが、時すでに遅く、3月中旬から4月上旬にかけて、上ノ国、北村、中須田、苫符、湯ノ岳にかけて感冒が猛威を振い、死者 116名の多きに達した」(北海道・上の国町史、引用終わり)

 第35回(GEN746)でとりあげた、アスピリン脳症とみられる「嗜眠性脳炎」も日本で広がっていました。大阪朝日新聞 1924.8.30(大正13)より。(以下引用)

 嗜眠性脳炎が神戸にも侵入 刈藻島と大橋町に発生二患者共に死亡す
 兵庫県下に流行している脳膜炎ようの奇病は遂に別項の如く神戸市にも発生した、県衛生課調査にかかる現在患者は高砂に5名、竜野に7名、神崎郡に11名、御影に1名、神戸市に2名、明石市に4名、加西郡に8名、加古郡に10余名
 その他に散在している分及び死亡患者を加うると 合計150名に達する見込みである。岡田本県衛生課長は右脳炎ようの奇病について「症状と聞いてみると多分嗜眠脳炎に間違いはあるまい云々 」
(引用終わり)

 大阪毎日新聞 1926.9.11(大正15)より。(以下引用)

 「(兵庫)県下におけるねむり病患者は9日までにすでに2百余名に達しなお蔓延の徴を示しているが病原は依然として不明で、県衛生課でもほとほと手を焼いている。(中略)大正10年(1921年)に明石で小流行を見たが間もなく終熄し大正13年の大流行を経て今回のせうけつにおよんでいる。病原にいたっては依然謎で…」(引用終わり)

 以上のように、日本でのスペインかぜもアスピリンの過剰投与が原因と考えられます。しかし、予想外の問題が見つかりました。第一波の前半(1918年末)の死亡者数(15万人程度)が疑わしいということです。

 誰が何の目的で、こんなデマを流したか?
ということが次なる問題となりますが、ここでは あまり深入りしないことに したいと思います。予想としては、1923年9月に発生した 関東大震災において「朝鮮人暴動の噂」を流布させた正力松太郎が怪しいと考えています。

 1918年の夏の米騒動は、7月に 富山県魚津市で最初の事件が起きると、たちまち全国に飛び火して軍隊が出動する事態となりました。多数の国民が暴動に加わったのは新聞が報道したためとして、内務省は報道規制をかけようとしました。このときは新聞社の反発を買って失敗していますが、デマの流布は情報操作の一環ではなかったかと思われます。

 正力松太郎は米騒動の鎮圧の功により従六位に叙せられていますが、米騒動により寺内正毅内閣が退陣に追い込まれ、後継には原敬が首班指名(1918年9月)され、日本初の本格的政党内閣が誕生しました。原敬は1921年11月に東京駅で暗殺されましたが、犯人は3度もの大赦で1934年には 早くも釈放されるという「特別な処遇」を受けていることから政治的背景の存在も推測されています。(ウィキペディア「原敬」)、1918年末の「スペインかぜで死者多発」のデマは原敬内閣の倒閣運動の一環という見方も考えられます。

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■「…翌1919年になると、多数の死者が東京で出始めています。それも肺病を伴っていたようです…」という箇所の記述は、「肺病」ではなくて「肺炎」ではないのか? まあ、当時は、肺結核患者が大量にいただろうから、結核患者が インフルエンザ感染でとどめをさされた可能性はあるけど。

米騒動と デマらしい インフルエンザ大流行(第一波=1918年秋~19年春)の前半(1918年末)との関連が、すっきりしない記事。■1918年8月にはじまった米騒動がシベリア出兵がらみであることは たしかだろうし、結局混乱のせめをおわされて寺内正毅内閣が倒壊するなど、内務官僚たちにとっては、まさに国難だったのだろう。あとぢえで冷静に検証するなら、当時の国力=後方支援能力からすれば、単なるコミュニズム不安と領土的野心しか動機をもたない=大義のないシベリア出兵は、無謀かつ有害無益な選択だった。それによって、革命がおきかねない危機までよびこんでしまったわけだし。しかし、支配層にとっては、ソ連政府の確立は恐怖そのものであり(なにしろ、コミュニズムが正統性を主張できるだけの、野蛮な帝国主義が日本列島周辺をおおっていたから、革命がとびひする不安は、相当なものだったはず。ナショナリスティックな日比谷焼打事件(1905年)でさえ、充分きもを ひやしただろうから。たとえば「呉市では、水兵が騒動に参加して検挙された。また、一部の地域では制止すべき警官が暴動を黙認した」(ウィキペディア「1918年米騒動」)なんてのは、それこそ 当局を おおいに あわてさせる深刻な事態だったはず。
■だから、新聞報道が暴動をコピーさせるという危機感は内務官僚として当然の危機感だっただろう。暴動鎮圧は「殊勲」そのものだったし、記事差止命令が新聞各社の抵抗にあって功を奏さなかった以上、「ウワサには ウワサ…」式の謀略がめぐらされても フシギでない。疫病不安がひろまれば、決起集会なども元気がそがれるだろうし、当局や富豪などに つめよるよりも、自分が落命しないよう とじこもろうという心理もはたらくだろうし。


■それにしても、当時の知識層にとっては、デモクラシーは、インフルエンザ同様、ヨーロッパから流入した疫病のような存在だったというのは、わらえる はなし。コミュニズムは、一時のエボラ出血熱パニックぐらい、おそろしげにうつっていたことだろう。下層労働者ばかりでなく、旧制高校の学生など富裕層出身のインテリたちまで「感染」してしまうわけだから、こわくてこわくて、しかたがなかったにちがいない。
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