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Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
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調査対象外だった「核の本土持込疑惑」【世界の環境ホットニュース[GEN] 747号】

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世界の環境ホットニュース[GEN] 747号 10年03月19日
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       臨時号 調査対象外だった「核の本土持込疑惑」

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調査対象外だった「核の本土持込疑惑」           原田 和明

 2010年3月9日、日米両政府の 4つの外交「密約」を検証していた外務省の有識者委員会(座長・北岡伸一東大教授)は、そのうち3 つは密約があったとする報告書を岡田克也外相に提出しました。4つの密約とは、「核搭載艦船の寄港・通過」「朝鮮半島有事の戦闘作戦行動」「沖縄返還時の原状回復補償費の肩代わり」「沖縄への核再持ち込み」であるとされています。なぜ検証対象がこの4つなのでしょう? 今回は調査対象外だった「本土への核持込み」疑惑を検証してみます。



 「密約」検証報告書が提出される直前の3月7日、毎日新聞は一面トップで、岩国基地(山口県)に核兵器が配備されていたという元米国政府高官の発言を掲載しました。(以下引用)

 元駐日米大使補佐官:「岩国で核保管」66年に3か月以上

 【ワシントン古本陽荘】ライシャワー元駐日米大使の特別補佐官だったジョージ・パッカード氏が、毎日新聞の取材に、米軍が1966年の少なくとも3か月間、岩国基地(山口県)沿岸で核兵器を保管していたと証言した。同氏によると、核兵器を搭載した艦船を「ほぼ恒常的な形で」配備し、核攻撃に備え、「(一時的な)通過とは言えなかった」という。

 パッカード氏は先に米外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」で、当時米軍が沖縄から本州へ核兵器を秘密裏に持ち込んだことを明らかにしていた。

 同氏によると、核兵器は、海兵隊戦車揚陸艦内で保管され、揚陸艦は岩国基地に隣接する係留施設に留め置かれていた。核兵器は有事の際、数時間以内に同基地飛行場の航空機に搭載され、攻撃に向かう可能性があったという。

 国防総省の当時の首脳らもこの事実を把握。ワシントンで行われた会議の際、国務省の担当者がいる前で国防総省幹部が、岩国の核兵器に言及したことから偶然、発覚した。

 60年の日米安保条約改定の際、米軍が核兵器を日本に持ち込む際には、日米両国の事前協議の対象にするとされた。さらに、核兵器を搭載した米軍航空機や艦船の寄港や通過については、事前協議の対象とはしない「密約」があったことが判明している。核兵器の常時に近い形での配備は、これらに明確に反するものだった。

 パッカード氏は「岩国の核兵器は許容される『通過』には当たらないとライシャワー大使は即座に判断し、激怒した」と証言。辞任して暴露する可能性に言及して、米軍に撤去を求めたという。

 さらに、米軍の意図については「日本では誰も気が付かないという判断の下、秘密裏に配備された」と分析し、「ライシャワー大使の姿勢は米軍に対し、日米の取り決めを順守するよう求める警告になった」と強調した。
(引用終わり)

 外務省の有識者委員会はこの問題を無視して、報告書を提出していることが、有識者委員会の性格をよく表しています。しかし、この記事にもプロパガンダの疑いがあります。なぜか同じ内容の記事が10日もたって共同通信(2010.3.16 18:01=内容に新しい情報がないため省略)からも配信されています。どちらの記事も米国側に安保条約を遵守しようとする姿勢があったとする偽装工作の疑いがあります。

 まず、1966年にライシャワーが「岩国に核兵器があることを知った」のは「偶然」ではありません。日本の国会で問題になったからです。(1966.6.24 衆院外務委員会より以下引用)

川上貫一(共産党)「日本にはもはや核兵器が持ち込まれておるのではないかと思われる節があります。それはアメリカの第五空軍の事故防止点検要目というものであります。これが横田、三沢など米空軍基地の安全担当将校に配付されておるといわれております。これには、核兵器の積みおろしは容易に見られない場所で行なわれているかどうか、また貯蔵施設はさくを施した地域内にあるが、そこへの接近を照らす灯火、つまり電灯を備えておるかどうか、そのほかいろいろ詳細に記載されておるそうであります。これはすでに日本に核兵器が持ち込まれておるということを示唆するものだとわれわれには思える。一体政府はこれを確めたことがありますかどうか。」


外相・椎名悦三郎 「第五空軍の事故防止点検要目ですか、そういうようなものが外部に簡単に出るはずがない。そんなものをつくっておるはずもありませんし、またつくったとしても、そんなものが簡単にくずかごの中から発見できるというような、そんなことは私はほとんど考えられない。」

 椎名の狼狽ぶりが目に浮かぶようです。川上は「事故防止点検要目」の実物を見ていないようで、追及はここで終わっていますが、ライシャワーは不測の事態に備えて、岩国の核兵器を一時的に隠すよう指示したと思われます。

 ライシャワーが身を挺して、日米の取り決めを順守するよう求めたというのも間違いです。

 1962年3月23日の 米国防省での会議で、空軍参謀長カーチス・ルメイが「日本の軍関係者は米軍が日本国内で核を持っていると思っている。核持ち込みの秘密合意を持ちかけたらどうか」と提案しています。これが「密約」持ちかけの動議ですが、ルメイの発言から、既に核は自民党政権の黙認の下で本土に持ち込まれていたと考えられます。

 駐日アメリカ特命全権大使として東京に赴任していたライシャワーはルメイの提案に対して意見を求められています。彼は4月4日に大使公邸で大平正芳外相を極秘の朝食会に招き、1960年1月に結ばれた核搭載艦船の日本寄港を認める密約の本文を再確認した上で、同日、国務省宛秘密公電で「参院選や内閣改造を控えた段階で核貯蔵を打診しても、怒りを買い、不発に終わるだろう」と返答しています。(豊田祐基子「共犯の同盟史 日米密約と自民党政権」岩波書店2009)

 ライシャワーに求められた意見とは、日本政府に密約を打診するタイミングであって、持ち込みの是非ではありません。彼は遅くともこの時点で本土に核があることを知り、持ち込みの是非には一切言及していません。その彼が1966年に「岩国に核があることを知って激怒」するはずがないのです。

 ライシャワーはこの朝食会で大平正芳に「本土への核持込み」の話を出したかどうかはわかりませんが、「参院選後」という打診のタイミングは、このときライシャワーが大平から得た感触だったのでしょう。ライシャワーが心配した「参院選」は1962年7月1日に行なわれ、与野党の議席数はほとんど変化しませんでした。懸念はなくなり、この頃「密約」が結ばれたのではないかと推測されます。

 「核兵器がすでに在日米軍基地に置いてある」とモスクワ放送が指摘したのは1963年1月11日でした。「米国は、日本、沖縄、韓国、フィリピンの 各基地を含む環太平洋の諸基地に、核装備をした軍用機をもっている」と当時の米太平洋空軍司令官・オドンネルがキャンベラで語って、米国務省と在日米第五空軍(岩国)が慌てて否定したのは1963年4月30日のことです。(1972.3.2 朝日新聞 夕刊「今日の 問題」)この発言は、オドンネルが、以前は「黙認」だった「日本本土への核兵器の持込み」がその後に日米両政府の間で「合意」されたことは知っていたが、それが「密約」だとは知らなかったために起きたハプニングだったように感じられます。

 なぜ、自民党政権は密約を受け入れたのでしょうか? もともと、自民党政権は1960年の安保条約改定を取引材料にして米国政府にカネを無心しており、カネと引き換えに米国の要求は何でも呑むつもりでいたと思われます。(「枯葉剤機密カルテル-49」GEN636

 1958年7月25日に 蔵相・佐藤栄作(後に首相)がカーペンター駐日大使館一等書記官東京グランドホテルの佐藤事務所で会談、資金提供を要請していますが、このタイミングが重要です。1週間前の7月18日に藤山愛一郎外相がマッカーサー駐日大使と会い、「安保改定についての日本側見解を30日に示したい」と伝えていますので、このタイミングで、佐藤が米国に資金提供を「打診」したということは、安保改定の内容は米国次第というサインを送ったことになります。

 そして、「打診」から一か月後の 1958年8月25日になって、岸信介首相と藤山外相が大使に会って、「条約は小幅の修正ではなく、根本的に改定したい。」と申し入れています。(1994.10.25 朝日新聞)この間にCIAから佐藤栄作へ200万ドルが渡ったと推測されます。(CIAから自民党への資金供与は 1964年まで続く)そして、1958年9月12日、アメリカ政府は 安保条約の改定草案を決定しました。

 本土への核持込みに「密約」が必要だったのは、安保条約の柱のひとつに「日本での米軍の配置、持ち込む兵器、緊急時の施設使用などについては事前に協議する。」という一文があるからですが、米国次第だったはずの条文に、なぜ最初から守るつもりのない「事前協議」を 盛り込んだのでしょうか? それは当時、カネだけではどうすることもできない、日本における反米感情の高まりがあったからです。1957年におきた砂川事件では、東京地裁(伊達秋雄判事)で、「在日アメリカ軍は指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず戦力にあたり、日米安保条約は違憲である。」との判決が出されたのです。このような経緯から安保条約に「事前協議」という空手形を入れざるを得なかったのです。(「枯葉剤機密カルテル-50 GEN637

 なお、毎日新聞の記事は、岩国に関してだけですが、これまで核兵器の持ち込みの疑惑があったのは三沢(青森)、横田(東京)、厚木(神奈川)、嘉手納(沖縄)の各基地と、辺野古(沖縄)の弾薬庫と多数にのぼります。首都圏にまで核兵器が持ち込まれている疑いが強いのに、自民党政府は「事前協議がないから持込みはない」と言い続けてきたのです。

 1972年3月2日付の朝日新聞朝刊に「私は日本に核兵器を運んだ」との元米空軍軍曹の証言が掲載されています。証言したのは、「反戦ベトナム帰還兵の会」書記長のアル・ハバト氏(当時36歳)。彼は 1953 年に入隊、航空輸送司令部(MATS)第七輸送隊に配属され、1963年から65年まで東京・立川基地に勤務、67年に退役という経歴です。彼は日本原水協主催の 3.1ビキニデーにおいて来賓挨拶の中で「日本に運んだ核兵器は、米空軍の戦術核爆弾B43(935kg)やプルトニウムなどの核分裂物質そのもので、記憶しているだけでも、嘉手納(沖縄)に数回、横田(東京)、三沢(青森)には少なくとも1回核兵器を運んだ」と証言しました。その夜の記者会見でも、「核はバードゲージ(鳥かご)と呼ばれる金網製の容器に入れられていた。輸送した時期は横田基地が 1963年3月頃、嘉手納は1965年10月末か11月上旬」とさらに詳しく、具体的に核兵器を運んだ状況を説明しています。

 この証言は物証がないものの非常に具体的で、軍事専門家も信頼性の高い証言であると認めており(1972.3.7朝日新聞)、当時核持込み疑惑を追及していた公明党や社会党がそれまでに入手していた資料と合致する内容でもありました。この問題は早速、国会でも取り上げられ、外相・福田赳夫は「調査する」と答えています。

 外務省は在京の米大使館に問い合わせたところ、「米国政府は日米安保条約の事前協議の約束を忠実に守っており、そうしたことはありえない」との回答があり(1972.3.2 朝日新聞)、ワシントン駐在の大河原公使が電話でホワイトハウスに問い合わせたところ、「米国が無断で核兵器を持ち込むことはありえない」との回答だったということです。(1972.3.3 朝日新聞夕刊)

 本土への核持込みの問題が再び取り上げられたのは1971年11月16日の衆院・沖縄返還協定特別委員会です。楢崎弥之助(社会党)が、日本政府が何も米軍の行動について具体的に把握しておらず、事前協議は骨抜きになっておる実情を明らかにした上で、「いわゆる核抜きの問題」を取り上げました。

○楢崎「実は沖繩の返還時の核抜きどころか、この本土に核が貯蔵されておる疑いがある。岩国基地をまず例にあげます。岩国に、核貯蔵庫及び核点検室並びに核兵器(R)、そして、事もあろうに、生物兵器バイオロジー(B)と化学兵器毒ガス(C)、これまでも全部そろって貯蔵をされておる疑いがあります。つまり、CBRが全部岩国にそろっておる。これは私どもの党の軍事プロジェクトチームが数か月をかけて観察と追跡調査をした結果、今日の時点における事実を私はいまから明らかにしたいと思います。」
 
 岩国、横田、厚木、佐世保の米軍基地に 毒ガス兵器が 貯蔵されていることは1971年12月22日の参院・沖縄返還協定特別委員会で黒柳明(公明党)が米軍の送り状を証拠として政府を追及しています。このとき、防衛庁長官・江崎真澄は「アメリカ大使館に問い合わせたが、クリスマスで回答が遅れた」とか「化学戦防護訓練用であって化学兵器には該当しないとの回答だった」という苦しい答弁(12.28参院・沖縄及び北方問題に関する委員会)に終始していました。

 楢崎が 新たに示した 証拠は、1966年に 川上が 指摘した「事故防止点検表」(1965年3月1日付米第五空軍部隊に通達)でした。岩国基地内にある特定の倉庫の設備や監視要員の人数、配置などが、米軍が作成した「核施設の事故防止点検項目」とすべて合致するというのです。

 沖縄選出の上原康助は「辺野古の弾薬地域もやはり三重の金網で囲まれております。このように、厳重な警戒体制の地域に核が貯蔵されていることは、いまや公然の事実となっております。沖繩にある別の米軍地域の飛行場の地図にもやはり核を扱う地域が二重の金網で示されております。こういう沖繩の現状からしても、いま楢崎委員が示した岩国の飛行場の実態というものは、まさしく、日本の核抜きという問題、あるいは事前協議の問題が骨抜きであり偽りであるということが証明をされていると私は確信をいたします。」と政府を追及しました。

 この日の深夜11時50分頃、赤坂議員宿舎の楢崎の部屋に一本の電話がかかっています。

男「楢崎さんですか? CIAが動き出していますから注意してください。」楢崎「あなたはどなたですか?」男「・・・」(黙って電話を切る) (「楢崎弥之助の爆弾質問覚書き」学陽書房1979)

 楢崎は8年後に「この種の米軍の動きについては、すでに沖縄における 第七心理作戦部隊、VOA(アメリカの声)、CGB、極東放送の調査を通じて、その巧妙、狡猾、陰険、危険極まる手口を知っているだけに、この記録を残しておくことにする」(同書)と書いていますが、この時点での恐怖心は相当のものがあったことでしょう。

 楢崎はさっそく11月17日の衆院・沖縄返還協定特別委員会で、「トップシークレットに属する問題なので、秘密会で議論したい」と申し出ていますが、自民党に却下(結論に至らず)されています。議事録に残された次の楢崎の発言から、楢崎と自民党議員との温度差がよくわかります。「すでに、私が案じておりましたとおり、CIAが動き出しております。それでもなお公開でやれ── 私は秘密会で明らかにしたいと思いました。しかし、公開でやれ ということで あれば、私も相当の決意をしなければ なりません。(発言する者あり)そんな笑いごとじゃないのです。こういうふまじめな方がおられるんだったら私はやれません。」

 楢崎は、岩国基地への核持込みに関する証拠を公開の席で開示せざるをえなくなり、次の証拠を列挙したことが国会議事録に残されています。つまり、1966年以降も岩国基地には核兵器が保管され続けていたと推測されるのです。

1. 1970年10月、岩国における核兵器取り扱いに関する新しいコードの確認が行なわれた。 

2. 1971年1月22日の夜、A6イントルーダー2機に核兵器の積みおろしの作業が行なわれた模様である。問題の爆弾は、幅が約1m、長さ約3m、そして爆弾の先端には赤と白のラインがある(※注 赤=核爆弾、白=普通爆弾)普通の爆弾の積みおろし作業は10~15分なのに、この場合は小一時間かかった。ガード兵も7名が外向きに立っていた。

3. 1971年2月1日の夜に岩国基地へB52が飛来、2日未明に離陸した。

4. 1971年3月、ハウンドドック と思われる核兵器の出入りがあった疑いがある。トレーラー3台にそれぞれ一個ずつの爆弾が載せられた。最初の2台には、爆弾の先端に3本の黄色のライン(※注 黄=化学兵器)、最後のトレーラーの爆弾は銀色で、先頭部分が赤(※注 赤=核爆弾)。その日、10匹のヤギが問題の弾薬貯蔵庫周辺に放され、一晩で全滅した。米軍は野犬にかみ殺されたと発表。

5. 1971年5月23日、「岩国から沖縄へ3個の核兵器を移動すること」とのトップシークレット(TS)がワシントンから伝えられた。このメッセージは 5月27日に沖縄に届けられた。TSは通信ではなく、将校が手渡し。

6. 岩国基地のF4J 海兵飛行大隊が核兵器投下演習のため、沖縄の伊江島に飛来。韓国では模擬爆弾投下演習を実施。

 国会議事録によると、この日は追及の途中に、

○楢崎「委員長、大きな声であくびをしている人がありますから、そういう方は出していただきたいと思います。」
○櫻内委員長「品位を保持してください。」

との記録がありますので、「核抜き」の実態に関する追及にも自民党席には緊張感はなかったようです。「みんな知っていることだが、認めるはずがないじゃないか」といった感じでしょうか。ところが、楢崎と上原康助が疑惑に関する調査を要求すると、自民党は「調査すべきかどうかの結論が出ていない」とはねつけるという応酬となり、怒声が飛び交う中、大出俊(社会党)が「これだけの疑惑があるのに米国を信じろの一点張りは通用しない。米国に調査を要請するくらいの努力をすべきだ」と発言すると、ついには大混乱になり、議事録はそこで終わっています。この混乱の中、沖縄返還協定は強行採決されました。国会の混乱は続き、「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定の締結について承認を求めるの件」は11月18~20日にかけて本会議が開けない状況が続きました。

 さらに、11月22日、社会党委員長・成田知巳は記者会見を開き、新たな証拠を持ち出して、岩国の 核疑惑を 曝露しました。岩国の 米軍基地の 電話帳に、「NBC School(核・生物・化学兵器教育部隊)」「Guard Barracks-NBC Wepons(核・生物・化学兵器警備隊舎)」「ABCC(原爆障害調査委員会)」などの記述があり、岩国基地には核システム(教育、輸送、保管、搭載など)がそろって存在しているのではないか」と改めて政府に調査を迫ったのです。「現実にそこに核弾頭があるか否かの問題ではなくて、核システムが存在すること自体が問題なのだ」と力説しました。

 この直後に、若い女の声で楢崎に「岩国の核疑惑について情報提供したい」と電話があり、都内のホテルを待ち合わせ場所に指定してきました。女性スキャンダルのでっちあげを恐れた楢崎は、同僚の横路孝弘に相談、横路の秘書を代理に立てましたが、有力な情報は何一つ得られていません。(「楢崎弥之助の爆弾質問覚書き」学陽書房1979)

 佐藤栄作は11月24日、この混乱を収拾(本土への核持込み疑惑を隠蔽)するために、「沖縄国会」で非核三原則の決議を決断せざるをえない状況に追い込まれたのでした。決議は「政府は核兵器を持たず、作らず、持ち込ませずの非核三原則を遵守(じゅんしゅ)する」と明記され、「国是」となったのです。

 岩国基地の立入調査はその後形式的にでも行なわれていました。防衛庁から統幕の空将補と陸上部隊の統幕の責任者が二人で米軍岩国基地を、司令官立ち会いの上で立入調査したが、隠蔽の形跡もなかったと報告しています。(1971.11.29衆院・沖縄及び北方問題に関する特別委員会)しかし、この直前、岩国基地では弾薬類の配置、貯蔵替えが秘密裏に大規模に行なわれていることが確認されています。(「楢崎弥之助の爆弾質問覚書き」学陽書房1979)

 以上のことより、「持ち込ませず」は最初から空手形だったことが明らかです。それにも関わらず、鳩山由紀夫首相は「非核三原則堅持」を打ち出しました。鳩山もまた、「守るつもりはない」ことを宣言しているかのようです。しかし、本土への核持込みを密約にせざるをえない状況を作ったのは国民であることも事実です。

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【かきかけ】
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