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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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「トキのケージ、最初からテン侵入防げぬ設計施工」(読売)ほか「ムダ」とはなにか74

トキのケージ、最初からテン侵入防げぬ設計施工

トキのケージ
順化ケージの鉄骨と金網の結合部のすき間。
横12センチ、縦9センチの大きさ


 佐渡トキ保護センター 野生復帰ステーション(新潟県佐渡市)の訓練用順化ケージ(檻 おり)で、国の特別天然記念物のトキがイタチ科のテンに襲われて死んだ問題で、テンの侵入経路とみられるケージの金網に見つかった多数のすき間は、そのほとんどが2007年のケージ設置時からのものであることが14日、環境省の調査でわかった。

 同省はこれまでに、ケージ側面部に235か所、天井部に28か所の計263か所のすき間を確認した。最大のものは、幅12~20センチ、長さ3・7メートルに及んでいた。すき間のほとんどは、施設の劣化ではなく、鉄骨の接合部などにできた構造上のものだった。

 また同省は13日夜、夜間でも動物の動きを捕捉できる赤外線カメラを設置。14日午前0時~4時に計4回、トキのいないケージ内を走り回るテンの姿をとらえた。

 国のトキ保護増殖事業計画には、テンなどによる捕食を防ぐ対策をとるよう明記してあるが、ケージは、そもそもテンの侵入が防げない設計・施工だった可能性が高い。14日に現地を初めて視察した小沢環境相は、「テンは入ろうと思えば、どこからでも入れる状態だった。今までよく事故が起きなかったなと思う」と述べ、大幅な改修と設計・施工の問題点を徹底調査することの必要性を指摘した。

 順化ケージとほぼ同じ構造の繁殖ケージは昨年、テンが侵入したことを受けて補修された。順化ケージが補修されなかった点について小沢環境相は、「大きな問題だと思っている」と述べた。

(2010年3月15日03時08分 読売新聞)

-------------------------------------------------
■要は、設計自体がまちがっていたこと、まちがった設計によって建設されたことに当局がずっと無自覚だったことが露見したわけだ。■先日の記事とくらべると、それは一層よくわかる。 トキ襲撃、ケージの金網62か所にすき間


 新潟県佐渡市佐渡トキ保護センター 野生復帰ステーションの訓練用順化ケージ内で、国の特別天然記念物のトキがイタチ科のテンに襲われて死んだ問題で、ケージの金網のうち62か所で、網目やつなぎ目部分が通常よりも広がっていたことがわかった。
トキのケージ2
順化ケージの金網のすき間を調べる環境省職員ら
(佐渡トキ保護センター野生復帰ステーションで)
=環境省提供


 環境省が11日発表した。テンが拡大した網目などから侵入した可能性があり、同省の管理態勢が問われそうだ。

 ケージ内にいたトキは11羽。このうち死んだ9羽を含む10羽が、9日夜から10日朝にかけて襲われた。けがをした1羽と、無事だった1羽は別のケージに移されている。同省によると、ケージの網目は、側面が2・5センチ四方、天井は積雪も考慮してやや大きめの4センチ四方になっている。11日の環境省の現地調査で、62か所で網目などの広がりが確認され、大きなものでは縦9センチ、横12センチのL字形のすき間もあった。

トキのケージ3
テンを捕獲するために順化ケージ内に設置された
金属製のわな(佐渡トキ保護センターで)
=環境省提供


 テンの生態に詳しい北海道斜里町立知床博物館村上隆広学芸員は、「テンは頭さえ入れば、体はすり抜けられる。大人のテンの頭の直径は約5~6センチ程度。通常の網目なら難しいが、少しでも広がれば入れるのではないか」と指摘する。

 環境省のトキ保護増殖事業計画では、トキの捕食者となるテン対策の実施を明記している。同省は「センターの職員が必要に応じて、目視で調査していたが、異常は見つからなかった」と説明しているが、今回、職員が改めて詳しく調査したところ、初めて多数の網目の広がりが見つかった。

 同省は2008年にもケージ内へのイタチ侵入を確認。この時はドア下部のすき間から侵入したとみられ、ふさぐ措置を取っていたが、公表していなかった。

(2010年3月12日03時04分 読売新聞)

-------------------------------------------------
■事件が発生してからの あとぢえではあるが、すきまが質・量ともに、巨大であったことに無自覚であったがゆえに、最初の調査は、完全に「アナ」だらけだったことがわかる。「今までよく事故が起きなかったなと思う」という担当大臣のソボクなコメントは、担当スタッフ集団が いかに まぬけた 認識水準にとどまっていたかを ものがたる。■おそらく、スタッフは、捕食者がはいこむリスクは二の次で、ネコぐらいしか想定しておらず、トキが にげだせない包囲網で充分と カンちがいしていたんじゃないか?

■もっとも、トキを育成し生態系にもどすという作業が、自然環境の復元にどういった意味をもちえるのか、ちゃんと説明責任をはたすべきだろう。■環境ファシズムという表現があるが、反捕鯨運動などもふくめて、環境ナショナリズムというべき愚行を問題視すべきではないか? トキ色といった色彩文化が日本列島から消失したといった哀惜の念を全否定はしないが、過去の環境を復元することを本気でめざすなど、ムリ/ムダ/ムラの典型ではないか? 環境破壊の速度をおとし、あらたな環境破壊のリスク要因をへらし、貧困対策などを短期だけでなく中長期的にも構想するなど、ほかに重要課題がいくらでもあるだろうに。



トキ:9羽襲撃死 環境相視察「皆さんに申し訳ない」 再発防止を約束 /新潟


 「一生懸命(トキ保護を)やってくれた島民の皆さんに申し訳ない」。14日、トキ9羽がテンに襲われて死んだ佐渡市の佐渡トキ保護センター野生復帰ステーションの順化ケージを視察した小沢鋭仁環境相はおわびの言葉を口にし、再発防止に努めることを約束した。

 視察には泉田裕彦知事や佐渡市高野宏一郎市長も同行。小沢環境相らは佐渡自然保護官事務所笹渕紘平保護官の説明を受けながら、ケージのすき間やトキの死骸(しがい)が見つかった場所などを注意深く見て回った。

 これまでの調査で見つかったケージのすき間は計263カ所。小沢環境相は「今までよくこうした事故が起きなかったかと思った」と施設に不備があったとの認識を示した。昨年、繁殖ケージにテンが侵入していたことについては「どうしてその時点で(順化ケージへ)対応できなかったか問題だ」とした。

 環境省から委託を受け施設を管理する県の泉田知事も「管理体制を含め課題があった。検証して対応したい」と話した。

 トキを襲ったものかは不明だが、テンが14日未明にもケージ内で確認されたため、環境省はケージ内に餌(鳥の空揚げ)を入れた捕獲用ワナの設置を継続。夜間のカメラ撮影も続ける方針。小沢環境相は、今秋に控える3次放鳥の可否については「16日の専門家会合の議論を見て判断するが、状況が厳しいことに変わりはない」と話した。【畠山哲郎、磯野保】

【関連記事】
トキ:「擬交尾」の画像を公開 環境省
小沢環境相:14日に佐渡トキ保護センター訪問
トキ9羽死ぬ:テンが襲撃、足跡から判明 環境省
生物多様性:「国内損失、止まらず」目標は未達成 環境省
環境省審議会:戦略的アセスメント答申 計画検討で義務化
毎日新聞 2010年3月15日 地方版

-------------------------------------------------
■県知事や市長まで視察と称して うごくという、異様な事態。環境大臣の釈明等も、みんな 巨大なムダだとおもうが、メディアは、そういったツッコミをいれる気がないらしい。■優先順位の混濁こそ、この列島の政治的混迷を象徴しているようにみえる。これなら、巨大な財政赤字もなくなるまい。

■だから、つぎのような論評は、一見正論にみえるが、むなしい議論にしかみえない。
リョコウバトをふくめて、近代にはいって人類が絶滅させた大量の動植物に対する鎮魂はいいとしても、罪悪感をおさえこむために、偽善的なアリバイ工作をいつまでつづけるのか?


【主張】トキの死 再生に向けて抜かりなく
2010.3.15 03:21
……
 新潟県佐渡市の佐渡トキ保護センターで、今秋の野生復帰を目指していたトキたちが死んだ。野生に適応するための順化ケージという施設内での災禍だった。
 ケージに侵入したイタチ科の小動物、テンによって、眠っているところを次々襲われたのだ。
 トキを自然界に戻す計画は、平成20年9月の第1次放鳥以来、円滑に進んできた。最初の10羽は、冬に全滅するのではないかと心配されたが、彼らは予想を超えてたくましかった。
 一部は日本海を渡って本州に飛来し、長野県や宮城県などでも朱色の美しい姿を見せた。これまでに計30羽が放たれており、うち26羽が元気に生息している。
 第3次の今年は、今回死んだトキたちを含めて21羽の放鳥計画が立てられていただけに残念だ。
 日本のトキは、平成15年に最後の個体が死んで絶滅した。現在、放鳥しているのは、中国から贈られたトキを飼育施設で繁殖させた子孫である。中国産も日本産もニッポニア・ニッポンという学名の同一種なので、日本の自然の野山への再導入が決まったのだ。
 今回は計画のスタート以来、初めての大きなつまずきだ。ここまで非常に順調だっただけに、人間の側に油断があったのかもしれない。例えば、事故後に確認された順化ケージの隙間(すきま)の多さである。200カ所以上もあった。
 順化ケージは大型施設だ。センターの限られた人員では、完全な点検が難しいのは分かる。しかし、テンの方も生きていくのに必死なのだ。今冬の佐渡は雪も多く、例年にない厳しさだった。飢えたテンの目にトキは、命の糧と映ったはずである。
 順化ケージに隣接する形で職員が常駐するように、管理方法を改めてもよいのではないか。野生に戻ったトキたちは、人間とも遭遇する。人影にも驚かないことが必要だろう。モニターのみによる監視には限界がある。
 順化ケージは、外敵の侵入を防ぐ構造にはなっている。しかし、いったん破られると今度はトキの逃げ場がなくなるのだ。野外なら1羽が襲われている間に、ほかの仲間は逃げられたはずである。
今回の事故を教訓に多角的な検討を望みたい。
 それにしても、トキの復活は大変だ。絶滅前に適切な保護策を講じることが、いかに大切であるかを教えてくれている。




●旧ブログ「「ムダ」とはなにか を含む記事
●日記内「「ムダ」とはなにか」関連記事
●「動物をかうことの意味」「動物をかうことの意味2=差別論ノート25
●「「犬・猫年36万匹が殺処分」(朝日)
●「アライグマ/マングースたちには責任などない」「アライグマ/マングースたちには責任などない2
●「イルカによる自由連想
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コメント

<トキ襲撃>テン駆除に専門家が論争 生態系壊れる?(毎日)

]
3月16日2時40分配信 毎日新聞

 新潟県の佐渡トキ保護センターで国の特別天然記念物トキがテンに襲われた事故で、小沢鋭仁環境相は15日、トキを外敵から守る検討会を設置する方針を固めた。だが、テンは半世紀前に持ち込まれ、生態系の一部となった。専門家の間でもテンを駆除するかどうかの答えはみえない。

 環境省によると、テンは14~15日にトキが襲われた訓練施設「順化ケージ」内外で計10回、確認された。ケージの金網の網目より大きなすき間が263カ所あり、テンが出入りできる状態だった。

 テンは杉の苗を食べるノウサギ駆除を目的に、1959~63年、24匹が本州から持ち込まれた。03年には推定2000匹にまで急増した。テンの生態に詳しい佐渡市の矢田政治・元両津郷土博物館館長は6年前、自宅でヒヨコ18羽がテンに襲われた。「3センチのすき間で侵入する。放鳥したトキを守るため、ワナをかけて駆除すべきだ」と主張する。

 これに対し、新潟大の箕口秀夫教授(森林生態学)は「佐渡に定着して50年。生態系の中に組み込まれた。駆除すると、地域の食物連鎖が壊れる」と否定的だ。

 人が生態系に手を加え、悪化した例は多い。沖縄本島にしか生息しない鳥ヤンバルクイナは、ハブ対策のマングースのために激減。米イエローストン国立公園ではシカ駆除のために、オオカミを持ち込んだが、その功罪で論争が続く。

 16日に開かれる環境省専門家会合の小宮輝之座長は「問題はトキにとどまらない。外来種対策を真剣に考えたい」と話す。【足立旬子、畠山哲郎】

-------------------------------------
■かりに数百年単位でみたばあいに、トキが在来種で、テンが外来種であろうと、現在の じもとの生態系バランスは、後者こそ「現状の在来種」だろう。■それを、マングースなどと同列視するような議論は、単なる知的混乱である。

関連したネタ

今回の記事より規模のおおきい問題だとおもいますが、生物多様性そのものについて、以下のような記事があります。

以下、「原田武夫の飛耳長目…もとい国際政治経済塾」より
http://money.mag2.com/invest/kokusai/2010/03/post_155.html

びっくりした

生物多様性の保全は、貧困対策と同時並行でなすべき課題です。どちらも手抜きしちゃいけません。

ただ、まったく人間の干渉のない自然がこの星のどこに残っているかもわかりません。
トキは、高度成長期の開発によって数が減ったのをなんとか復活させたいのですよね。
それはいいとして、なぜ天敵がたやすく入りこむケージを使っていたのか理解できません。
人手不足ならなぜ新しい雇用をして人を足さない?
また人が調達できないなら、近くに番犬を飼うという手は? など疑問はつきません。
まさか、そのあたりの知識のない担当者ばかりだったのでしょうか。
あまり公共セクターたたきはやりたくないですが、お役所仕事でうまくいかないなら、
自然保護や生物多様性を求めるNPOが運営して、役所は金を出すだけのほうがいいのかもしれません。

優先順位問題

ワタリさん

■生物多様性を維持する目的を、一度徹底的に議論すべきだとおもうんですね(だからこそ、副題を 「ムダ」とはなにか にしています)。単なる、おいめ意識・後悔の念だけで 生物多様性を維持しようといった努力は、まともに機能するとはおもえません。合理的基盤が不在なので、どうせ、やりすぎか、ムリ/ムダ/ムラの続発になるだろうからです。■言語文化や、生活文化・風習・信仰などもそうですが、ムリして維持しようとしても、つづきませんし、言語学者や人類学者・民俗学者の自己満足や偽善・欺瞞につきあわされるだけです。動植物の「愛護」もふくめて、生物多様性は、「モンクなしの善」という前提で議論をすすめるのは危険と。
■生物多様性の議論だって、その背後には、バイテク産業とか国家的利害がからんでいることが大半ですし、保護対象が恣意的で、無自覚な大量殺傷に加担しているケースなど無数にあります。反捕鯨論なども、その典型ですね。■トキの復元も、トキのくらせた生態系の復元という、一見非のうちどころのない正論も、はたして可能なのか? テンなど、現在の「在来種」たる肉食獣の生態系上の位置づけをどうかんがえるか? これらは、ツキノワグマ・シカ・ニホンザルなどの生息状況はもちろん、セイヨウタンポポなど定着ずみの圧倒的優勢な「外来種」など、さまざまな生態上の「現実」をどうわれわれがうけとめるか? はたして人知によって、関与・制御が可能か? 妥当か? という、かなり深刻な問題のはずです。

■とはいえです。今回のケースは、当初の目的にそぐわない、単なるムダであることは、否定できません。■たべることが目的でないテンの殺傷行動は、生息のために必要不可欠か微妙ですし、かりに一部捕食したにせよ、それで劇的に かれらの生存に寄与したか かんがえれば、あの程度は「犠牲」という規模にあたいしないでしょう。■その意味で、設計や運営上、完全に破綻した「保護施設」だったわけで、ああいった緊張感の欠落したお役人しごとをくりかえそうが、所期の目的が達成されるはずがありませんね。■したがって、私見では、トキの個体数の復旧とか、トキがくらせる生態系の復元といった目標自体が妥当か微妙な気がしますし、今回の事態は、そういった目標達成のためのとりくみが根本的にまちがっているというのですから、二重にムダな気がしますね。そんな失態に税金をつかわれたくありません。ほかに、貧困対策など、優先順位上重要な課題が山積しているはずですし。■生態系維持の運動にたずさわる御仁たちは、「そんなことより、貧困者の支援・救出…」といった現場にはりつくNPOなどの批判にこたえきれるつもりなのでしょうか? なにか、学術的だの、地球環境といった、大義名分にもたれかかった慢心が感じとれてならないのですが…。

人権とエントロピー

という2つの概念で公益のすべてをかたれるんじゃないかとおもいます。
生物多様性も一定程度は意義があるのかもしれませんが、それはあくまで多様性の無い生態系だと脆弱であり不安定であるので、へたをするとカロリーベースで換算して生命維持に必要な水準の食糧生産もできなくなってしまう。そうすると人権侵害になる。
また、エントロピー(熱量を絶対温度でわった数値、いわば廃熱)が人権と同義なのは、そのエントロピーの増大が生命維持にかかせない、というか人間が生命として活動するかぎり増大させずにいられないので、増大した分を廃棄(最終的には水を媒体として宇宙に廃熱)するしかない。つまり、どの人間も生命維持をする権利がある以上、生命維持ができないほどにエントロピーをすてられない状態におかれていたら、それは人権侵害である。
生物多様性をふくむ、ほかの諸概念は、あくまでその人権とエントロピーを補佐するために利用されるべき従属概念である。

補足です

■貝枝さんの議論をよんで、はっきりかきわすれた論点をおもいだしました。■優先順位とは、結局のところ、人間中心主義を前提にしている、という点です。
■生物多様性をふくめた生態系の維持とは、それがまともに機能しなくなったとき、実質的に人類の滅亡を意味するからです。■「風の谷のナウシカ」などSF作品がえがくとおり、おそらく人類が滅亡しようと、相当数の動植物種がいきのこりつづけるでしょうが、そういった水準で人類が生存し、たとえば文化を維持することは困難と(しかも、人類は特定の文化に依拠しないかぎり、生得的行動様式だけでは生存不能な「欠陥動物」なので、文化が複数個体間で共有困難になった時点で、死滅が宿命づけられる)。■つまりは、ヒトがヒトとして存続する最低限の基盤こそ、生態系の安定的な維持、ある特定の範囲におさまる気候変動のあいだで地球環境が推移してくれる、水分と、酸素・窒素・炭素が循環し、熱が適当に配分・発散してくれる…という条件なのですね。

■だから、「動物愛護」とか「種の保存」とかいっていますけど、所詮は、人間第一の生命哲学にそって、すべてを判断している。コンパニオンアニマルを頂点として、人間に利用される、心理的にちかい動植物が一番大事にされる異種たちであって、それとて、人間第一の生命哲学の産物だということです。
■ただし、「人権の平均・最低水準を維持する」という現代文明社会の理念は、生態系・エネルギー消費・廃棄物処理など、エントロピー法則に支配された物質・エネルギー循環がまともに機能することを前提にしたものだということ。■つまり、世界の人権水準を維持するためには、エコロジカルに言動を制御するほかない。人権が目的で、生態系はその手段なのだけど、基盤でもあるから、それをそこなってはいきていけない…といった、各地の先住民たちの生活の知恵だの、「いかされている」といった さとりに到達しようとする仏教等の思想と、大差ない地平にたどりつくほかないと。

動物愛護と自然環境保護は話が別です。
自然保護は生態系のバランスを保つことを目的とするため、ペットの虐待等は取り扱いません。
また増えすぎた特定種を間引くための狩猟も自然保護は支持する場合もあります。
その見地からは今回の佐渡のテンの間引きは矛盾していません。

文化・文明といった言葉はナショナリズムとも密接に結びつくため、慎重に取り扱いたいと思います。

自然と文化の区別はあいまい・恣意的です。
両方の多様性のあるところは貧困差別の苦しみもやわらぎ、また貧困を再生産しにくいものではないでしょうか。

貧困対策と自然保護・生態系回復を、なぜゼロサムゲームとして見なすのか、わかりません。
ワールドウォッチの「地球白書」には、第三世界や先進国の下層の貧困問題が、環境破壊によってより複雑にひどいものにされている例もあげられています。
無駄というなら、官僚の天下りのほか、大学の文化系学部等のほうが壮大な無駄であり、それらの一部を廃止して自然保護なり貧困援助にまわすほうがよほど合理的かと存じます。

ワタリさま

>大学の文化系学部等のほうが壮大な無駄であり

公益という観点からすれば人権とエントロピーですべてが説明できるのではないかと指摘した貝枝としては、いまいち納得できません。

人間集団であれ個人であれ、ホモサピエンスの生存の基盤となるのが自然条件である以上、自然科学にあまり無知な人間に権力をにぎらせないことには意義があるかもしれませんが、心中をふくむ自殺など、人権の観点からすれば問題であろうが、エントロピー増大側からすればむしろこのましい(人口が少ないほうが環境破壊がおきにくいから)という状態を論じるに、やはりエントロピーは基盤ではあっても、その基盤が人権の基盤であるから大事である、という観点をもたないとなりますまい。そうした場合に、エントロピー増大則は基盤ではあっても、その法則から直接にはみちびきだせない人権問題を公益としてあつかうために、法哲学の様な分野から心理学や物語理論まで、あつかう問題の緊急性のちがいはあるとしてもおのおの一定程度の意味はあるとおもいます。もちろん、緊急性のちがいがあるので、どの分野にどれだけ人員(大学などの定員)があるべきかという問い、何が私的領域で何が公的領域であるかの峻別の基準の議論とその議論の社会全体に対する啓蒙活動、という問題はありますが。

そして人間としての価値観を自然条件(エントロピーの大小)だけで論じられると主張する人は、エントロピー増大即と、すくなくとも直接的には無関係な人権問題を人間としての価値観からはずす理由を、説明できねばなりますまい。

人間存在=ガン細胞論からすれば、ゼロサム的ジレンマ状況かと…

ワタリさん

●ことばたらずで誤解をあたえているかもしれませんが(逆に、こちらが論点をハズしてるかもしれませんが)、時間の関係で、別稿を用意すべきところ、はしょります。

> 動物愛護と自然環境保護は話が別
 ↑ ■リクツはそうでも、欧米人の言動で、別個といえるでしょうか? ホントに 別個であるなら、「クジラ・イルカは、知的動物なので…」系の正当化の論理など、もちだされないはずです。■また、学者さんや運動家の準拠する生態学的な環境保護運動が意味する自然観をつきつめていけば、ヒト=生態系のガン細胞論にいきついてしまうはずです。たとえば「増えすぎた特定種を間引くための狩猟も自然保護は支持する」といった姿勢は、「人口爆発につながるような貧困対策などするな」式の社会ダーウィニズムを支持しかねない論理をみちびきだすでしょう。なにしろ、ヒトの経済活動全体が総和として過剰であり、ひとりひとりの人間存在自体が生態系にとって、おジャマということなのですから。■野蛮な擬似科学としての社会ダーウィニズムとちがうのは、「先進地域の富裕層こそ破壊性がたかいので、率先して仏教的解脱ないし自死をえらぶべき」といった結論にいく点だけです。■また、「増えすぎた特定種を間引くための狩猟も自然保護は支持する」といった姿勢自体が、一見冷静な客観中立的立脚点にみえますが、旧約聖書にロコツにでているような、「牧人としての人類」といった ごうまんな自己認識と通底しているといえそうです。「間引き」の対象の第一の部分は、先進地域の富裕層であって、「増えすぎた特定種」にふくめないのは無自覚な偽善・欺瞞でしょう。


> 第三世界や先進国の下層の貧困問題が、環境破壊によってより複雑にひどいものにされている例もあげられています。
無駄というなら、官僚の天下りのほか、大学の文化系学部等のほうが壮大な無駄であり、それらの一部を廃止して自然保護なり貧困援助にまわすほうがよほど合理的

 ↑■これには、一部同意します。ただ、自然破壊をくいとめるためには、第三世界の貧困層うんぬんといった論理のたてかた自体が、優先順位をゴマ化しているとしかおもえません。優先順位上たかいのは、先進地域の富裕層の快適ライフの放棄であり、つぎがケータイをはじめとしてエネルギー・資源を大量消費し大量廃棄する生産・消費システムでしょう。
■また、大学の理科系学部が人文社会系よりも やくだっているようにみえるのは、破壊的に作用する部門をみのがしているからです。予算規模や環境破壊への寄与度などをみれば、自然環境に致命的貢献をしているのは、理科系の先生たちであって、かれらの例外的一部がまっとうな議論を展開するのも、同業者の犯罪性へのつみほろぼしのようにみえます(笑)。■たとえば、かれらは例外的一部をのぞけば、「人文社会系は、貧困対策にやくだたないムダなので、けずるべき…」系の「暴論」には、はしりません(ホンネは どうあれ、紳士・淑女として、そして、予算・名誉等、ゼロサム・ゲームのライバルであると同時に、「同業者」としての 自制として)。
■人文社会系の極楽道楽ぶりは、ワーキングプア層などと比較すれば、もちろん特権的で、存在自体が差別的ではあるのです。しかし、そのことを理科系の特権的研究者たちは、くちにできない。「だったら理科系のカネくいムシぶりはどうよ?」とか、「自然科学系・生命科学系の破壊性をどうする?」といった比較も同時に表面化し、「人文社会系のムダなど、かわいいもの(貧困層<中間層<文科系研究者<<巨大科学系研究者)」という、みもふたもない事実が露呈するので、いわないことにしているんだとおもいます。実際、くちにしたら最後、理系の基礎科学全般の クビをしめることに。【←この段落、加筆修正 2010/03/29 12:55】


■失礼ながら、ワタリさんの一連の言動をみるかぎり、理科系が美化されすぎている印象がぬぐえません。理科系のとりわけ応用科学系は、いかにもやくだちそうな主張を展開することで予算を確保してきましたが、もともと宇井純さん・梶田孝道さんらが指摘ずみのように、廃棄物問題やらが後手後手にまわるような体質をかかえています。大企業本位の大量生産・消費・廃棄政策を主軸にした巨大運動の一環だから当然です。宇井さんらの崇高な姿勢にまどわされては、理科系の犯罪性がわからなくなるでしょう。
■エントロピー学会周辺の先生方による「資本主義経済自体がリサイクルシステム」といった議論も、わりびいてかんがえる必要があります。産業社会は、同業者・異業種間での競争のために、必然的にリサイクルシステムをとりこむしかないという現実と、「だから、産業活動は自然破壊とは別個」という主張とは、別問題だからです。要するに、各企業や消費主体は、周囲との競争とか、サイフ事情から、リサイクルや節減につとめるけど、それは、資源の適切な利用、自然環境保護のための運動ではなくて、利己的な行動が、たまたま合理的にみえるだけだと。■以前とりあげた、石原産業という化学メーカーが、白色顔料を安価にてにいれるために廃棄物を処理する際、リサイクル商品だといいつくろって、「大量生産」=大量不法投棄したのが、フェロシルトだったという現実。これは象徴的です。おそらく、理科系のひとびとのおおくは、「石原産業は例外的なブラック企業」とおっしゃるでしょうが、メーカーとか工業技術自体が、監視をおこたるとすぐに破壊的なバカをやらかしかねない本質をかかえているのだとおもいます(その最悪のかたちは、もちろん軍需産業ですが、日本のばあい、いまだに問題が清算されていない、チッソ水俣工場の廃液問題=水俣病も、わすれてはならないでしょう)。■「科学技術はエコロジカルにも利用できます」だの、「科学技術はムリ・ムダ・ムラを廃します」といった理念は、形式論上 ただしいにしても、実際の企業や消費者がくりかえしている経済活動の大半は、それとは正反対の巨視的総体をなしている。この現実をどう直視するかでしょう。それらを、「科学技術の悪用・誤用」といった解釈で例外視するのは、技術信仰のたぐいだとおもいます。【←この段落、加筆修正 2010/03/29 12:57】
■いたずらに悲観主義にはしるのは、まちがっているでしょうが、大量生産・消費・廃棄を助長してきた理科系集団は、「みずからが展開した魔法をとめられなくなった魔法つかいの弟子」に酷似しています。■池内了さんが批判したような、ウソ・エコ運動が展開される現代日本の現実を、企業内の技術者さんたちは、どうとられえているのか? 「科学技術がムリ・ムダ・ムラをとりはらい人類をすくいます」と、強弁するのでしょうか? わたしのような しろうとからすれば、商品開発競争ですてられる巨大なオシャカはもちろん、「新技術」「新製品」の大量消費・大量廃棄の方がずっと巨大なムダにみえます。かれらは、いつになったら、自然環境に無害な商品を開発できるのでしょう? トヨタ・ホンダの「エコ・カー」みたいな、「市場との妥協」とかを、延々とつづけるのでしょうか?

この件に関しては

>貝枝さん

おっしゃること、わかります。ただわたしは人権という概念にも懐疑的でもあります。
どこまでを権利を付与する「人」に含むのかで、 賛否も変わってきます。

この問題についてはなんか矛盾のある書きこみで申し訳ありません。頭が整理できてませんね。

ただ、トキの絶滅の原因のひとつに環境ホルモン説があります。
トキが食べていた田圃や用水路にすむドジョウ等の餌に、農薬が蓄積し、環境ホルモン感受性の高い生物から消えていったんじゃないか。
トキはその見えやすい一例だとする仮説です。

その説に従えば、トキが生きていけるほどの環境は、ヒトもまた住みやすいと思うのです。
一部では「ゆるやかな水俣病」とも疑われるアレルギー性疾患(ヒトもサルもイヌもかかる)も、トキも生きられる環境では減るのかもしれません。
そういった文脈でトキ復活は、ハラナさんご指摘のように天然のトキ色(トキの翼を広げた内側のあわい朱色)へのノスタルジーだけではなく、
環境保全・復活希望に向けた希望のプロジェクトになる可能性もあります。
したがってこれを支持するものです。
ついでに日中友好のシンボルにもなるという長所もあります。

文系予算をテント村に

>ハラナさん

>大学の文系学部

を廃止するというのは、ちょっと表現が荒かったでしょうか。
詳しくは法律や経済や歴史あたりは国にかかわることなので残すとして、
文学科や哲学科はリストラでいいと思います。
そうしたコースは国の予算ぬきで民間のカルチャーセンターなり私塾なり哲学カフェや文化系サークルなりでやればいいだけです。
もし大学にこだわるなら、カルチャーセンターで受けた講座の単位を大学で発行するという折衷案もあります。
ある作家が何から影響を受けたか、
実在しない人物がどのような主観的感情をその内面に抱いたか等に金を注ぐのはおろかなことではないでしょうか。
アリストテレスも雄弁術はともあれ哲学は無料で教えていたとも言われています。

なぜ官僚天下りの再就職性には言及されないのに、大学の文科だけをかばうのか、分かりません。
貧困対策の観点から言えば、文学部または人文学科は、
失業者輩出学部であり、現業忌避をあおる肉体労働蔑視コースの最たるものではありませんか。
しかもそこには女性中心に入れられます。女性差別学部でもある。
「女の子だから文学部でいい」という言葉に、わたしは刑場に送り込まれるような恐怖を感じ絶望をあたえられてきました。そんなものならないほうがましです。
一部のものずきや金持ち中心の趣味に国の金をさくなら派遣村やユニオンに寄付すべきです。
そこにこれ以上予算をつけたりしなくていい。
トキ以上に役に立たないのが文学部です。
トキは環境汚染のバロメーターにも日中外交にもトキの世話役の雇用にも役に立ってくれています。

理科系にもいろいろ問題もあります。イリイチさんと小沢有作さん直伝のお弟子さんの山本哲士さんも内部告発されていますが、
環境と名のつくコースを大学に設置しようとしたおり、もっとも強行に反対したのは工学部の教員だったとか。
さもありなん、とわたしも感じます。
原発廃炉から太陽光エネルギーまで
科学技術によるマイナスを科学技術で克服するという逆説もあり、全部否定はできません。
何よりも失業が小さいのは理系コースの長所です。
だから問題点を検証しつつも、あまり大きく縮小しないほうがいいでしょう。

ほかにも論じるべき点もあるのですが、今日はここでいったん切ります。

ワタリさま

お返事ありがとうございます。

>ただわたしは人権という概念にも懐疑的でもあります。
どこまでを権利を付与する「人」に含むのかで、 賛否も変わってきます。

むずかしい問題はあるとおもいますが、多分それは「人」の区切り以上に、なにが「人権」であるか、ということだとおもいます。
たとえば、日本国憲法にある「健康で文化的な最低限度の生活」の具体的な基準とは何か、とか、判断に困難をきたす人間(情報弱者とか知的障がい者とか)の自己決定権をどこまでみとめるのが妥当か、他人に害は与えないとしても自分に害を与えうる危険な行為(賭博とか)はみとめられるべきか、かりにみとめられるとしたらどこまでの害ならばみとめてよのか、といった問題があるとおもいますので、「公益とは人権である」としたうえで、「ではその人権の基準は何か?」というむずかしい問いにむかう必要があることはわたしもみとめています。そして、わたしがワタリさんとちがうのは「人」の定義というより「人権」の定義の方が妥当な基準に到達しにくいとおもっている点です。

>国にかかわることなので残すとして

わたしにむけてではなくハラナさんにむけた発言ですが、釈然としないので意見をかきます。ワタリさんのおっしゃる「国」とは近代的な国民国家(ネーションステート)という意味だと推測しますが、わたしがしばしば提示している『国家主義を超える』(講談社)が指摘するように(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-304.html)、国家(すくなくとも「日本」)というわくぐみは欺瞞です。
その「日本」のうちでもGDPという数値はそれなりに根拠があるかもしれませんが、たとえGDP自体に根拠があってもそのGDPに他の基準よりも優先的に意味づけするのはひとつの政治的立場にすぎないでしょう。そしてGDPを偏重する人びとは『持続型社会は近づいたか』(日本経済評論社・165ページ)が指摘するように「可逆システムだけを肥大化させて莫大なGDPを生産する定常経済システムの可能性を否定する」仮説が提起されている以上、早晩その政治的価値観をとわれることになるでしょう、環境問題がどうでもいいという風潮が社会を席巻しないかぎりは。

法経予算もテント村に

ワタリさん

■ひごろから、理科系の過大評価が気になっていたのですが、ラディカルな文化・文明論を展開されるので、その一貫だろうとうけとっていたのですが、今回はちょっと印象が一変しました。

> 法律や経済や歴史あたりは国にかかわることなので残すとして、
文学科や哲学科はリストラでいいと思います。
そうしたコースは国の予算ぬきで民間のカルチャーセンターなり私塾なり哲学カフェや文化系サークルなりでやればいいだけ

 ↑ ■一見、実にわかりやすくみえますが、よくある俗論のたぐいじゃないでしょうか? ■小生、資格試験予備校のたぐいを美化する気は全然ありませんし、そういったところで受験テクニックだけとぎすませた層がほとんどをしめるような司法界など、ぞっとする方ではありますが、それこそ、法学・政治学系の官僚・テクノクラートこそ、民間で養成すればいいんじゃないかとおもいます。■逆にいえば、民間の趣味でやらせたばあいには、ほぼ壊滅的に継承が困難になる人文系基礎科学こそ、公的支援が必要だとおもいます。■しかし、人文系基礎科学のたぐいは、気のきいたたちまわりのできる有名人教授たちが、多額の科研費を運用する以外は、学部の基本的な図書・雑誌さえもまともにかえないのが現状のようです。たとえば、旧帝大の九州大の文学部の先生あたりが、ともかく予算がけずられて学部教育自体がショボくなった。自分たちの研究予算をケズって、教育にまわすしかない…とか、おっしゃっていました。
■あと、以前もかいたとおり、日本のばあい、高等教育機関への公的助成は、OECDのなかで最低クラスであることは、有名です。厚遇されているいわれる巨大科学部門への拠出をまぜての総額・平均値ですから、あからさまに軽視されている私学などは、うまくたちまわっている巨大私学以外は、どうやってまわっているのか、ふしぎな状況なのではないでしょうか? ■いずれにせよ、欧米等の水準はおろか、韓国その他にもおとるのが、日本の大学への公的援助ということです。
■もちろん、ワタリさんは、学習過程は基本的に、おかみだのみではなく、自律すべきだ…というご持論でしょうから、それでいいのかもしれません(欧米基準にたよらず、イリイチ主義で)が、だったら、なぜ理科系や法学・経済系のテクノクラート・文科系官僚たちの養成に、大量の資金をまわしつづけていいのか、よくわかりません。■それこそ、出世したい、巨大科学周辺でかせぎたい、といった御仁たちは、民間で予備校・グランゼコール(フランスでは国立の超エリート大学院ですが)でも運営して、そこで養成すればいいんじゃないでしょうか?
■くりかえしになりますが、人文系基礎科学が、ヒマつぶしの極道にみえるというのは、ごく一般に流通している議論ですが、それをほうりだしていいというなら、大学・研究所のほとんどは、「仕分け」の対象になります。理科系も、それをまぬがれません。基礎科学は社会的有用性を、巨大科学は費用対効果を…。■そして、法律・経済系官僚の予備軍を、国家が当然のように養成するのだって、正当化できるかどうかは、微妙です。過去に自民党の右派議員らが、「国家にたてつく左翼弁護士を、司法研修所で養成するのは、いかがなものか?」といった難癖をつけて、実際、司法界が右傾化していった経緯がありますが、「国家権力にかかわる人材は、国家が養成する」といった論理では、それこそ、現体制がのぞむような人物ばかりが養成され、批判勢力を育成することが困難になります。現に、検察官によくありがちな、「推定無罪」原則の無視は、「うたがわしきは、罰しろ」的な姿勢を当然視するような、検察系の研修所教官などの悪影響がいわれてきましたし、検察官の密室での権力犯罪について判事たちが鈍感だったのも、国家的なエリートの典型である司法試験合格者+官僚コースの選択者同士の、ごうまんともいえるエリート意識の産物でしょう。
■いずれにせよ、教育に公権力をなるべく介入させない、学習者はなるべく自律的に主体性を維持していく…といった理念に賛同されてきたワタリさんのくちから、テクノクラート・官僚の国家的養成を財政的に正当化する議論をきかされたのは、意外でした。


> 何よりも失業が小さいのは理系コースの長所です。
だから問題点を検証しつつも、あまり大きく縮小しないほうがいい

 ↑ ■これも、理解不能です。■失業がちいさいってのは、要するに、無数の財団やら企業群が、理科系のエリートさんたちを中心に大量採用しつづけている、ってことじゃありませんか? だったら、なおさら、公金で養成する必要などなくて、たとえば経団連あたりに財団つくってもらって、民生技術や巨大科学をになう人材を民間で育成してもらうと。


> 原発廃炉から太陽光エネルギーまで
科学技術によるマイナスを科学技術で克服するという逆説もあり、全部否定はできません

 ↑ ■巨大科学のツケを、同業者がカバーするのは、あたりまえです。専門家の責務といえるでしょう。しかし、ことがおおきくなって、てがつけられなくなるまえに、同業者批判を展開して、バカをさせないというのが、正論じゃないでしょうか? 核開発をはじめとして、科学者たちの大半はそれに失敗してきました。
■また、「魔術を解毒できるのも魔術」といった論理は、現実的にただかしかろうと、権威主義的なブラックボックス視であって、実に危険ですね。理科系の外野に位置する市民=しろうととしては、批判的意識を維持する科学者たちの意見を最大限に利用して、「魔術」の暴走をつねに警戒・監視しつづけねばなりません。■環境社会学とかをふくめて、人文社会系の批判勢力が、こういったときこそ、やくだちそうな気がしますが、ワタリさんの、さきほどの図式だと、巨大科学は公的養成で、監視勢力は市民の自助努力で…ということになります。まあ、左派系としては、自明の構図(資源・情報の圧倒的格差)なので、おどろきもしませんが、オンブズマンなどの養成を民間だけでやっていて、巨大なバカをくいとめられるんでしょうか? 理科系の住人たちに、ほんとに自浄作用は期待できるんでしょうか? いや、技術エリートたち相互の自浄作用を楽観視する姿勢こそ、まさに権威主義だとおもうのです。

ギャラリーむけに 補足

■ワタリさんの議論への批判的検討という文脈を充分理解できるなら、誤解は生じないとおもうんですが、各論だけに違和感をおぼえて、つっかかるひとが理科系あたりにいると、面倒なので、補足しておきます。


■理科系は就職できるんだから、人文系以上にほっておけば、というのは、ワタリさんが、理科系の社会的有用性を自明視するような発言にむけてです。■ハラナの私見では、そうではありません。ハラナは しろうとながら、理科系のオーバードクター問題を深刻視しています。研究所や大学で研究をつづけられると信じて、教授たちのプロジェクトのしたばたらきをさせられながら、延々と論文をかきつづける、「奴隷」的な身分は、こと日本だけではなく、アメリカあたりもでごくあたりまえという惨状を、いいとはおもっていません。
■ある意味、国策で、博士課程が肥大化し、その労働力として「大量採用」があるわけで、はっきりいって、法科大学院と一部通底するような問題があることは、認識しています。法科大学院は市場を無視しア無責任ですが、理科系の博士課程も教授たちの労働力確保がらみの市場無視の政策の産物だと。

■でもって、人文系・社会系の大学院のばあい、研究所等への就職は絶望的で、実質、周囲の教授たち(+テレビ・論壇等にご登場のタレント教授)ぐらいしかロールモデルがないという現実があるわけですが、理科系のばあいは、実際先輩たちが国外もふくめて研究所等に就職実績がなまじあることが、オーバードクターとか、「ポスドク」層の悲惨なところですよね。■教授たちの奴隷労働力は、そういった「めのまえのニンジン」こみでリクルートされていると。その意味では、「ちょっとかんがえたら、ムリだろ…」が一応成立する法科大学院や、人文系大学院博士課程などとちがって、理科系の詐欺商法は、悪質です、前者は「自己責任」というリクツを一応だせるけど、後者は、「自分の能力わきまえろ」は、あまりにむごい。理科系の市場価値なんて、ときの運もありますし。

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