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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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新型インフルエンザ騒動の怪43=豚インフルエンザ報道を検証する(第35回) 「スペインかぜ」前後の奇病群【加筆あり】

シリーズ「新型インフルエンザ騒動の怪」の続報。■今回も、“世界の環境ホットニュース[GEN]”の最近のシリーズ “豚インフルエンザ報道を検証する”の最新版を転載。


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世界の環境ホットニュース[GEN] 746号 10年03月5日
……

      豚インフルエンザ報道を検証する(第35回)

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第35回 「スペインかぜ」前後の奇病群 原田 和明

 スペインかぜは、悪性のウイルスが原因で、第一次世界大戦末期の1918年に突如大流行して、翌1919年に忽然と消え去ったかのように言われています。しかし、調べてみると、1915年には既にヨーロッパでインフルエンザによる大量死という現象は始まっていました。さらには、1916年から1926年の間に、ヨーロッパと北米で「嗜眠性脳炎」という「ライ症候群」とよく似た新種の脳炎が大流行していることから、当時インフルエンザ対策として、アスピリンの大量投与が行なわれていたと推測されます。その他にも中身のいい加減なワクチンの粗製乱造(次回で取り上げる予定)もあり、それらの乱診乱療が頂点に達した時期がスペインかぜパンデミックではなかったかと思われます。「インフルエンザ怖いキャンペーン」では、これらの周辺情報が一切知らされないまま、スペインかぜの恐怖ばかりが強調されてきました。



 ジーナ・コラータ「インフルエンザウイルスを追う」(ニュートンプレス2000)(P246~)には当時流行した病気として次の3つの例が記載されており、スペインかぜは1915年には既にその予兆をみせていたことをうかがわせます。

(1)インフルエンザ

 オックスフォード(ロンドンロイヤル病院の医師で、永久凍土発掘プロジェクトのメンバー)が聞き取り調査した、1915年にイギリスのキャンプに入営した志願兵の娘の話。(戦争から戻ってきた)父親は、キャンプで恐ろしい病気を見たと繰り返し彼女に話した。多数の兵士がインフルエンザに罹り、命を落とした者も多かった。しかし、かん口令が敷かれ、兵士たちはその病気と仲間の死については口をつぐんでいたという。

(2)カタル(化膿性気管支炎)

 1916年と17年に、ロンドン近郊にあったイギリス軍のオールダショット兵営とフランスの イギリス陸軍キャンプで 致死性の呼吸器系ウイルスのような病気「カタル」が発生。イギリス陸軍の軍医が 1917年7月 発行の「英国医学会報」で「化膿性気管支炎」発生と報告。論文をみたオックスフォードによると、症状はスペインかぜに酷似。39℃を超える発熱があり、咳をすると、血痰が出る。脈拍は速く、やがてチアノーゼ(酸素欠乏のために耳や唇が紫色に変わる状態)の兆候がでる。そして、肺に水が溜まり、窒息して死んでしまう。

(3)嗜眠性脳炎

 百科事典マイペディアによると、「嗜眠(意識障害のうち最も強い昏睡に次ぐ状態)を主症状とする脳炎で、第1次大戦後ウィーンに流行し,日本にも一時局地的流行をきたしたが、その後みられない。」とあります。しかし、「インフルエンザウイルスを追う」によると、戦時中の1916年から1926年の間に、ヨーロッパと北米で新種の脳症が猛威を振るい、推定で500万人の命を奪った後、突然終息したとされています。この病気は睡眠病の一種で嗜眠性脳炎と呼ばれていますが、ウイーンの 医師 バロン・コンスタンチン・フォン・エコノモが1917年に発表した論文が最初の報告であるため、エコノモ病とも呼ばれています。(以下、ジーナ・コラータ「インフルエンザウイルスを追う」より引用)

──(エコノモの)報告によれば、この睡眠病の患者は昼も夜も眠り続ける。目を覚まさせることは可能で、質問にも答えるし、命令にも従うが、まるで夢遊病者のようだ。放っておくと、すぐもうろうとした状態に戻る。数週間で死亡する患者もいれば、何ヶ月も深い眠りの状態が続き、なかにはこん睡状態に陥る患者もいた。

 命を取り留めても完全に回復することはなく、じっと動かずに座っているだけ。周囲のことはわかっても、凍りついたように動くことも返事をすることもできなかった。「彼らは無気力で、鈍感で、まるで死火山のようだ」とフォン・エコノモは言っている。「嗜眠性脳炎」は推定で 500万人の命を奪った後、1926年に突然終息した。
(引用終わり)

 この「嗜眠性脳炎」について、1982年に米国疾病予防センター(CDC)がワシントン州シアトルとサモア諸島での疫学調査を行い、シアトルでは嗜眠性脳炎で死亡した 142例はインフルエンザと因果関係があるようだと発表しています。(ジーナ・コラータ「インフルエンザウイルスを追う」)

 しかし、インフルエンザと因果関係があるといっても、ウイルスが原因とは限りません。この症状がアスピリン中毒あるいはライ症候群にも見られるものならば、インフルエンザ対策として服用した解熱剤のアスピリンの副作用が原因とも考えられます。ウィキペディア「ライ症候群」によれば、ライ症候群の症状は次の五期に分類されています。(以下引用)

<第一期>
持続的かつ重度な食事によって緩和されない嘔吐、全身の無気力、悪夢、一般的な精神症状、例えば混乱

<第二期>
小脳の炎症に伴う麻痺、過呼吸、脂肪肝(生検で発見)、過度の反射作用

<第三期>
第一期および第二期の症状の継続、昏睡もありうる、大脳浮腫もありうる、まれに呼吸停止

<第四期>
深くなる昏睡、光に対する最小反応を伴う瞳孔の散大、最小だが、いまだ存在する肝機能不全

<第五期>
第四期の症状の急速な発症、深い昏睡、てんかん発作、呼吸停止、弛緩非常に大量の血中アンモニア(血中300mg/100ml以上)、死亡。
(引用終わり)

 こうしてみると、1916年から流行したとされる「嗜眠性脳炎」は、軽度の無気力から重度の昏睡まで、ライ症候群の症状とよく似ているように思えるのですが・・・。

 これらの記録から、1915年にはすでにインフルエンザの流行が始まっており、その対策として アスピリンを大量に投与する ようになった結果、「嗜眠性脳炎」が一気に広がったと考えられます。しかも1915年から26年までの長期に亘って続いていたことになり、そのうちの1918~1919年に「スペインかぜ」は発生したというわけです。

 それでは、なぜアスピリンは、この時期に大量投与されるようになったのでしょうか? アスピリンの商品化は、1880年代後半、コールタールを原料とした染料と爆薬の製造工場だったバイエル社が新規ビジネスとして、解熱鎮痛剤の開発に着目したのが始まりです。創業の地バルメンを離れ、レバークーゼンに大工場を建設した際、製薬部門の大拡充が行なわれました。

 ここで、アスピリンが誕生したのですが、もともとは当時リウマチの痛み止めに使われていたサリチル酸に、胃が荒れるという副作用があり、その副作用を和らげる目的で、サリチル酸をアセチル化するというアイデアが生まれました。アセチル化されたサリチル酸は化学物質名ではアセチルサリチル酸と呼ばれ、商品名としてバイエル社は「アスピリン」と命名したのです。1897年のことでした。当時、サリチル酸は胃を荒らすだけでなく、医者の間では心臓を弱らせるといわれていました。そのため、バイエル社内部で商品化に対する慎重論が続出して、製品化は2年後の1899年6月になりました。


 その2年間に どのような議論が交わされたかは不明ですが、バイエル社は、商品化が決定すると、試供品を大量に医療関係者にばらまき、好意的な学術論文を出してもらうことに成功しました。その結果、売上は激増し、販路は米国にまで広がりました。1903年にはニューヨーク州レンセラーにアスピリン工場が建設され、1909年には、米国におけるバイエル社の売上の31%がアスピリンという空前の大ヒット商品になったのです。

 アスピリンは、当初から消炎解熱鎮痛剤でしたが、関節炎やリウマチの消炎鎮痛剤として利用されるときは大量に服用し、解熱の場合は少量を服用していましたので、消費量でみると、圧倒的に消炎剤として利用されたことになります。(平澤正夫「超薬アスピリン」平凡社新書2001)この10年の間に、医師たちも、アスピリンの処方で消炎鎮痛剤と解熱剤の区別がなくなっていたのかもしれません。そのため、1915年にインフルエンザが流行すると、解熱目的でもアスピリンを過剰に投与するという処方が横行したのではないかと思われます。

 第24回(GEN735)で「3時間毎に1000mg」を投与していた事例を紹介しましたが、これは「肺水腫を発症しかねないほどの大量のアスピリンを 3時間毎に繰り返し服用していた」ことになるのです。

 さらに、1917年4月のアメリカ参戦が、その傾向に 拍車をかけたのではないかと思われます。10月にアメリカ議会で、対敵国通商法が成立し、敵国であるドイツ人やドイツ企業が所有する財産は米国政府の外国人財産管理部に移され、特許や商標まで接収されました。

 これに対し、ドイツ企業はダミー会社や、偽装契約、株式名義の変更などで対抗しました。バイエル社もダミー会社を設立して財産隠しを謀りましたが、匿名の投書で偽装が発覚、幹部からは逮捕者も出ました。(平澤正夫「超薬アスピリン」平凡社新書2001)おそらく、このとき大量のアスピリンも接収されたのではないかと思われます。そして、1918年は世界的な寒波に襲われました。この接収品が米軍その他に渡り、「スペインかぜ」ではインフルエンザの特効薬として、兵士や一般市民に大量投与されたのではないかと思われますが、接収後の流通経路は不明です。

 「嗜眠性脳炎」が1926年に突然終息した理由はわかりませんが、この頃、アメリカのデュポン社に対抗すべく、ヨーロッパで大規模な化学業界の再編成(大合併)があったこととの関係が気になります。1925年にドイツでIGファルベンが設立され、バイエル社も参画しています。これに追随して、26年にはイギリスでICI(帝国化学工業)が設立されています。


 その他にも気になる奇病が流行していたようです。日本陸軍の記録である「陸軍軍医学校50年史」(陸軍 軍医学校編 不二出版1988=復刻版)の「大正8年(1919年)」の項には、1915年から「塹壕熱」と呼ばれる奇病がヨーロッパで流行したとの記述があります。(以下引用)

「今次の欧州大戦において1915年の後半期に及び各国軍隊中に一種不明の熱性病を多発せり、本病の初めて発見せられたるは、フランダース地方にして、グラハム氏(1915年9月)の記載をもって嚆矢とす。その 主として塹壕内に発生するの事実あるをもって、ハント、ランキン両氏は本病に塹壕熱の名を付したり。」

「(フランダース地方に)次いで北部フランス戦線における英軍中に発生し、その他フランス国内における英仏軍、サロニカメソポタミヤ及び英国内地における英軍、イタリア戦線及び内地における伊軍、更にドイツ・オーストリアにおける敵国軍において本病多発を見、之に関する報告もまた多数にのぼりたり。往々にして未だ一定するに至らず。」
(引用終わり)

 「主として塹壕内に発生」したことから、当時の塹壕の事情を調べてみました。塹壕はまずドイツ軍が高台に築いたため、英仏軍は低地に塹壕を築くしかなく、1メートルも掘ると、地下水が湧きだす とか、雨水が溜まるという問題があったようです。さらに、死んだ兵士はその場で埋葬されたため、塹壕を掘ると、死体がでてくるということもよくあったし、死肉や残飯にネズミが群がったとの記録もあることから、兵士たちは不衛生な冷たい泥水の中で長時間待機させられていたようです。ウィキペディア「塹壕」には「塹壕足」という奇病が紹介されています。(以下引用)

 降雨などの増水時には、兵士たちは汚物まみれのぬかるんだ泥に足を突っ込んだまま、いつ攻めて来るか判らない相手を待ち続けなければならなかった。このような特殊な環境によって、伝染病は元より、塹壕口内炎や塹壕足(重篤な水虫や凍傷によって循環器系障害を起こし、酷い場合は足を切断した)などの病気も発生した。特に寒冷地においてはその被害は甚大なものとなり、戦後復興に大きな影を落とした。(引用終わり)

 塹壕熱というのは塹壕足と同じ病気かと早合点しそうですが、以下に紹介されている塹壕熱の症状からは別物のようです。(以下引用)

 潜伏期は戦地の経験により略々15日ないし25日なりと推定せられたり。病型に2種あり。一は潜伏期を経て俄然 発熱し、一は前駆症状をもって徐発するものとす。第一型に属するもの殊に多数なり。

 病状は悪寒戦りつをもって突然発熱し、頭痛、眼底痛、眩暈、筋痛、関節痛、四肢痛殊に下腿痛および諸多の熱候等なり。本病に最も特有なる一症状は持続性の下腿痛殊に脛骨痛なりとす。熱型には長短二型あり。いずれも40℃ないし41℃に達し、悪寒または悪寒戦りつを伴う短熱型にありては約3日ないし1週間の持続発熱期の後、4日以内において 1、2日間の持続を有する。再発作を呈す長熱型においては発熱約3日の後、5日ないし7日の間、歇をもって 再び定期的発作を呈し、3ないし5回以上の周期を反復することあり。脈拍は体温の高きに比して徐々なり。重症においては 約5週の後、中程度の不整を呈し、遅脈を呈す来たすことあり。脾腫及び発疹を認むるもの約70ないし80%に上り・・
(引用終わり)

 これはアスピリンの過剰摂取による「急性脳症」と似たところもあり、軍隊ではインフルエンザ対策として大量のアスピリンを準備していたことと、「嗜眠性脳炎」と時期が重なることなどを考え合わせると、これもインフルエンザ対策としてアスピリンの過剰摂取などが無関係ではなさそうですが、想像の域をでません。しかし、「持続性の下腿痛殊に脛骨痛」という特徴から、「水虫や凍傷」だけが原因とも思われません。

 このように、わけのわからない奇病が次々に発生していたのが、「スペインかぜ」の時代だったといえそうです。それを衛生状態、栄養状態の格段に異なる現代に当てはめるのはいかにも無理があるというものです。ただし、アスピリンの副作用の影響はあくまでも欧米での話しで、参戦により、アスピリンの輸入が途絶えた 日本には当てはまらない はずの話しです。では、なぜ日本でも「スペインかぜ」パンデミックが起きたのでしょうか? 次回は、「スペインかぜ」当時に行なわれた、ワクチンの粗製乱造の実態を紹介します。

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■このシリーズで何度かとりあげられたものとして、タミフルがあるが、いのちとカネがからむ、薬学・医学周辺には、欲望がらみの謀略がうずまくようだ。■戦争ビジネスに暗躍するのが「死の商人」というのが とおり相場だが、医薬品業界関係者の相当部分も、人命をメシのタネにしている点で、「死の商人」の一種といえそうだ。■政治的必要性をみとめれば「殺人」も辞さないのが軍人だとすれば、商売のためには、動物実験・人体実験も辞さないし、HIV感染者の貧困層に実に冷淡だった薬品メーカーに象徴されるとおり、「人類の幸福のため」というのは、商売の美化・合理化のための方便だろう。■軍人も、「殺人」「破壊」を必要悪視して、自分たちを合理化してきたのと、実はそっくりなわけだ。

■いずれにせよ、パンデミックなどとは 正反対の感染力だった ぶたインフルエンザは、国策や企業群にとどまらず、権威ある国際機関までもグルになって展開した「インフルエンザ怖いキャンペーン」のネタにされたことになる。



“豚インフルエンザの戦時体制”(『田中宇の国際ニュース解説』2009/04/30)
“インフルエンザ強制予防接種の恐怖”(『田中宇の国際ニュース解説』2009/07/29)
“インフルエンザ騒動の誇張疑惑”(『田中宇の国際ニュース解説』2010/01/29)


“新型(豚)インフルエンザの通説を斬る”
●「10月~12月の挨拶:インフルエンザ・インデックス

●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(1)
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(2)
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(3)致死率の計算方法
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(4)スペイン風邪、致死率2%の事情
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(5):理屈が通るか?
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(6):予防接種のリスク
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(7)致死率 0.4% の感染症とは?
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(8)致死率がサイエンス論文の 1/100 になった背景と今後の対策
●「通説を斬る(8)参考資料:日本の感染者数推移
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(9)根拠に乏しかった学級閉鎖
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(10)研究者とマスコミの関係
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(11):5つのインフルエンザの配列比較
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(12)配列比較からの考察
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(13)伝聞と責任(ウクライナの騒動)
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(14)日本感染症学会の通説を斬る
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(15)季節性>新型?
●「新型(豚)インフルエンザの通説を斬る(16)科学論文の検証方法
●「インフルエンザ・スキャンダル、WHOの巻
●「インフルエンザ・スキャンダル、厚生労働省の巻
●「本当はどこが違うんだろう?新型(豚)インフルエンザ
●「新型インフルエンザ報道への懸念
●「悲しい連帯責任、新型インフルエンザ
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タグ : 1984年 真理省 ハイパー独裁 安全

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