プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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優先順位/存在証明/自己実現/自己満足6

■「自己実現」産業は、もちろん、大学・専門学校・カルチャーセンター等の、広義の教育機関もふくまれるだろう。このシリーズでも話題にあげた、人文・社会系の博士課程とか法科大学院なんてのは、詐欺的部分の最たるものだとおもうが、学部教育や専門学校の「専門」とか、カルチャーセンターの提案する「文化」が、たたけば ホコリがでるような あやしげな しろものであることは、いうまでもない。■行政がらみの職業訓練機関を「失業産業」と酷評した評論家がいるが、資格試験にうからせるだの、「きみたちのキャリアをデザインしよう」とうそぶいたり、「自己実現」というなの ヒマつぶし空間の提供など、これらの おおくは、失業予備軍に集団催眠をかけるか、賃金をかせぎだす空間からしめだされた層の「余暇の充実」という意味で、「物語」の提供である。■「自分たちは時間を有効利用している」「自分たちは充実した人生をおくっている」という集団催眠だ。
■これらの「業界」のなかには、女性会社員たちのために「留学」「転職」などを提案する産業もいれておくべきだろう。「あたらしい物語がはじまります」というヤツだ。結婚という人生のリセット以外、つまり、オトコに依存しない「自己実現」がうまくいかないとなやむ女性たちにとっては、いろいろな意味で「そとにでる(=解放)」というイメージが きりふだになるのだから。

■いずれにせよ、これら「まよえるひとびと(=いいわるい別にして、経済活動等で忙殺されていない層)」に、「物語」を提供するのは、前回とりあげたような心理療法とか、「セミナー」のたぐいだけではない。■もっと、ごく普通に、病理現象などは意識しない層むけに提供される、「あなたの あたらしい物語づくり応援します」系の業界がぶあつく存在するということ。

■実は、この「物語」(人生の展開と意味づけ)について、前回紹介した岸田秀氏が、ぴったりの議論〔「小物語の時代」〕を展開している。それも、おなじ『不惑の雑考』におさめられている文章なのだ。■その冒頭では「人間とは物語をつくるという病気にかかった動物である。どんなことをするにも物語が必要なのである。これは集団に関しても個人に関しても同じであって、たとえば創世神話や建国神話をもっていない民族や国家は存在しない。……個人にも、起源の物語は必要不可欠である。個人のアイデンティティとは、自分が自分についてもっている物語である」とのべている(『不惑の雑考』所収,pp.39-40=初出『読売新聞』1983/04/01)。 ------------------------------------------
■これと直結する文章も一部(かなりながいが)転載〔「物語としての生と死」『不惑の雑考』文春文庫pp.61-4=初出『毎日新聞』1984/07/07〕。

 …まず、ほとんどの人間は自殺しないが、…なぜ自殺しないのか。それは自分という物語をまだつづけたいからである。本能がこわれた動物である人間は、生存本能とやらに盲目的に駆り立てられて生きているのではなくて(もしそうなら、他の動物たちが自殺しないように人間も自殺するはずがない)、自分という物語をつくりながら、そしてそれに依りながら生きている。人間が生きるためには自分という物語が不可欠であり、誰でもそれぞれ、自分はどういう親から生まれ、どういう育ち方をし、どういう性格で、どういう能力があり、これまでどういう人生を送ってき、今はどういう身分で……といった一つの物語をもっている(捨て子の場合のように親がわからないと、この物語に重大な欠陥が生じ、当人は深刻な不安に悩まされ、欠落を埋めようと必死になる)。
 この物語はつねに未完成であって、人間はそれを完成させることを夢見ながら、そのために努力しながら毎日を送っている。……人間はつねにある目的を立て、この目的が実現しさえすれば自分の物語が完成すると信じ、そのために努力するのだが、それが実現すると、自分の物語にまだ未完成な部分をまた発見し、また別の目的を立てて努力するということを繰り返す。
 自分は切り離されて一人でポツンと存在しているのではないから、自分の物語はそれと首尾一貫しているいろいろな物語、周りの人たちについての物語、自分が属している集団、国家、世界についての物語と組み合わさっている。自分の物語は自分がそのなかに住んでいる世界の物語でもある。この物語が未完成でありながらも、一応首尾一貫していれば、人間は何とか生きてゆけるが、たとえば自分が自分の物語とはどうしても一致しない罪深い、卑怯な、恥ずべきなどのことをしてしまったり、世界の物語とどうしても一致しない不可解なことが起こったりすると、危機に見舞われる。従来の物語が破綻したわけで、この危機から脱するためには、従来の物語では説明できないそれらのことを一応首尾一貫した形で説明できる新しい物語を自分および世界についてつくらなければならない。
 精神分裂病の誇大妄想などは、こうした新しい物語の一種である。つまり従来の物語が破綻し、自分はたとえばナポレオンだということで破綻した自分の物語を立て直すのである。……周りの人たちにも認められる新しい物語をつくることができれば、一応正常者にとどまれるわけである。いずれにせよ、人間は生涯に何度かは重大さの程度の差こそあれ、この種の危機に直面するであろう。
 自殺という行為も従来の物語が破綻したことが出発点にあると考えられる。しかし、従来の物語が破綻しただけでは人間は自殺しない。人間が絶望から自殺することはない。自殺とは一つの積極的行為であり、人間はいかなる行為をするにも、それを物語に含めた形でしかできないのだから、自殺するためには、自殺を支える物語がなければならない。
 つまり、従来の物語が破綻したとき、自殺しない人とは、自分の生存を前提とした新しい物語をつくった人であり、自殺する人とは、自分の生存を前提とした従来の物語……を変え、死を前提とすることによって従来の物語を守ろうとした人(たとえば自分は道徳的人間であるという物語を支えにして生きてきた人が、罪を犯したとき、自ら死をもって罰することによってその物語を守る場合)か、または、はじめから死を前提にした新しい物語(たとえば天国で結ばれようと心中する場合)をつくった人たちである。
 ……人間においては、肉体的に生きているかどうかということよりも、自分の物語をもてるかどうかということのほうがその生存にとって基本的なことだ……

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■まず、以上の議論の前提になっている「本能がこわれた動物である人間」という見解は、別に奇矯なものではない。「ボルクによる胎児化説をうけて、ポルトマンやゲーレンといった そうそうたる人物によって、いわゆる「ヒト=欠陥動物」論は、くりかえしかたられてきた」。こういった人間観に違和感をおぼえる層は、「本能がちゃんと機能している動物である人間」という信念をデータをもって立証し、「本能がこわれた動物」論を反証する必要がある。■つぎに、「人間が生きるためには自分という物語が不可欠」という議論は、岸田氏の持論である「唯幻論」のなかの「私的幻想」をいいかえたものと理解できる。「自分の物語は自分がそのなかに住んでいる世界の物語でもある」とは、私的幻想はそれをとりこかこんでいる共同幻想との共存・葛藤をさけられない、という意味だ。

■無理心中や自爆テロなどもふくめて、この説明は説得力がある。■「「自殺は突然」など自殺者の心理、半数が誤解(内閣府調査)」という紹介文で問題にした、「日本の自殺者は、…あまり周囲に相談せずに、おもいつめ、一度で成功させてしまっている傾向があり、それは諸外国と異質だ」という論点をかんがえるうえでも、参考になる。
■もっとも、岸田さん自身は、1983年に1899年に統計をとりはじめてから最高の自殺者を記録したこと、「特に男性の40代50代の自殺者が急激にふえた」ことへの説明として、「大日本帝国の物語…民主主義の物語…経済成長の物語と、さまざまな集団的物語のなかで自分の個人的物語を書き換えさせられた世代で…生存を前提とする物語をつくることのむなしさを悟らされて…しまったのであろうか」と、いささか軽率な「自分史」を展開している。■しかし、重要なのは自殺者総数ではなく、自殺率である。実は1983年当時は、最悪の時期ではないのだ。■「図録▽主要国の自殺率長期推移(1901~)」では、長期波動について、日本列島をつぎのように解題している。

1.日本の自殺率の長期推移

 日本の自殺率は1936年までは20人前後で緩やかな上昇傾向にあった。1937年の廬溝橋事件以降の日中戦争、そして太平洋戦争の時期には、急速に自殺率は低下し、戦前戦後を通じ最低レベルとなった。国家総動員法(1938年制定)下で自殺どころでなかったとも考えられる。

 終戦後、高度成長が本格化するまで日本の自殺率は25人と世界一となった。社会保障が整備される以前であることから高齢者の自殺率が高かったことと戦後の価値観の大きな転換の中で若者の自殺率が急増したことが原因である(図録2760参照)。1958年の自殺率25.7人は過去最高の値である。その後の高度経済成長の中で、1959年国民健康保険法施行、1961年国民皆年金などの社会保障制度の充実や1960年所得倍増計画に代表される経済成長目標の国民的普及により、自殺率は、15人前後への低下した。国民全体で明るい夢を抱いていた時代だったといえよう。

 その後、1973年のオイルショック前後から自殺率は上昇に転じた。余り注目されなかったが、1983年の景気後退は自殺率の急増(前年の17.5人から21.0人へ)を招いた(図録4400、図録2740-1参照)。現在から振り返るとこれは1998年の自殺率急増の先駆だったといえる。自殺率が高い時期がしばらく続いたが、1990年前後のバブル景気の中で、自殺率は再度低下した。

 1997年秋の三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券と立て続けの大型金融破綻事件がきっかけとなり、98年の5月にかけて失業者が急増し、自殺率も、97年から98年にかけて18.8人から25.4人へと急増した。このときは自殺者数も前年の2万3千人台から、一気に、3万1千人台へと急増したこともあって、社会的に大きく注目を浴びた(図録2740参照)。

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■この史的分析でわかるとおり、岸田さんの解釈はおそらくまちがっている。しかし、「1983年の景気後退は自殺率の急増(前年の17.5人から21.0人へ)を招いた」という経済動向が、企業の中核だった40~50歳代の男性を直撃し、「自分の生存を前提とした新しい物語をつく」ることに失敗させ、かれら「死を前提とすることによって従来の物語を守ろうとした」という洞察は、まちがっていないだろう。かれらが死をもって守ろうとした「従来の物語」とは一体なんだったのか理解にくるしむし、あまりにものがなしいが。

■このようにみてきたとき、かりに いつわりであれ、「自分の生存を前提とした新しい物語をつく」る作業をてつだうひとびとが有害無益とはおもわない。いわゆる「真の自己」の発見といった、根拠のない方向に暴走さえしなければ。
■しかし、こういった 急性の病的心理においこまれた層ではなく、さきゆき不透明であるとか、日常生活に不全感がつきまとう層に、「あなたの あたらしい物語づくり応援します」系の商売をやらかすのは、卑怯というものだろう。■出自や不運などから「やぶれかぶれ」になって、他人をふみだいにすることを なんともおもわないところまで感覚がマヒした層はともかくとして、まっとうなビジネス、まっとうな応用科学を実践しているという自負のあるひとびとは、そういった詐欺商法を展開してはなるまい。■教育関係者とか宗教関係者が、その利用者に「通過儀礼」を課すのは、さけられない面もあるかもしれない。しかし、「あたらしい物語づくり」を、カネもうけや支配の道具につかうのは、卑劣きわまりない。そういった自覚をちゃんともった教育・宗教関係者がどのくらいいるだろうか? 多重債務者のために法律相談にのる弁護士のような「ひとだすけ」とは異質な おせっかいこそ「あたらしい物語づくり」産業なのであり、自分たちの「助言」が その一部にほかならないという自覚が。
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