プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

ブロとも申請フォーム

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

教科内容の選択権4

■塾講師+歴史研究者であるWallerstein氏や、哲学者内田樹氏らからすれば、初学者は、自分たちがなにをまなぼうとしているのか、学習内容も目的も理解できないのだから、「つべこべいわず、とりあえず おとなしく 指導にしたがう(ないしは、ひたすら マネる)」ということになる。■「まなぶ」の語源は「マネぶ」であるといった、よくある語源主義(ソシュールらによって論破された)に、したがうまでもなく、学習論としては、相当程度妥当性があること、普遍性があることをもとめるのは、やぶさかではない。これまでもかいたとおり。■しかし、すでにかいたとおり、それが公教育、それも義務教育段階・準義務教育空間で、そういった論理がまかりとおるなら、それは、文教官僚や教員層の横暴というものだろう。■悪評で有名なモンスター・ペアレント(クレーマー保護者)の、理不尽な攻撃をおくとするなら、官僚や教員は説明責任をおうのである。木村先生がシラバスの公開による生徒の自主選択を必死にこころみているように、高校だってね。 ■古典的なところでは、幾何学をまなぶことで抽象的な論理能力がつちかわれるから、実用性とは無関係にまなぶ意味があるといった論法がある。■たとえば、三平方の定理は、ひとつとして ゆるがせにすることのない論理の連鎖が、普遍的な真理を確認するという知的感動を継承すること、その論証が複数あることをしることで、真理への到達ルートが単一ではないという普遍的事実や、知的柔軟性の必要性を体感すること、…等々、いくらでも もっともらしげな教育論はくめそうだ。ロープを12等分に結び目をつくることで、3:4:5の直角三角形を実現でき、それによって地表上に直角を確保できるといった実用的な知識にとどまらない、さまざまな洞察力の育成が可能だとかね。■だが、東大等の理科系の先生方が公害問題・薬害問題などで御用学者としてたちまわったり、法学部や経済学部出身の先生方・お役人等が、一見もっともらしげな作文をおこなって知的詐欺をはたらいてきたなど、論理的整合性とは無縁の所業にでた経緯なども「普遍的」な事実であろう。かれらが数学などをとおしてつちかった論理能力とは、ときに専門知識による調査結果を意図的にゆがめたり、一般大衆をあざむくための逆説の悪用とか、そういったたぐいらしいことも、たしかめられるだろう。

■それはともかく、「無意識のうちに論理的思考や推理力、かんがえるヒントをえられるなど、まなんだときにわからなかった効用が、勉強にはあるものだ」といった、もっともらしい正論の代表的なものとしては、つぎのようなものがいいだろう。

 ……「強いられて何かをしなければならない」対象とは、それが仮に少し古い価値観のもとで選ばれたことであれ、過去の人類の経験の蓄積から「生きていくうえではまずこうするといい」という叡智がそれなりに詰まっているということだ。学校のカリキュラムがその好例である。村上春樹の『海辺のカフカ』にこんな一節がある。主人公の田村カフカが中学時代を振り返る場面だ。
「それでも学校の授業だけはずいぶん熱心に聴いた。それはカラスと呼ばれる少年が強く勧めてくれたことだった。
 中学校の授業で教えられる知識やら技術やらが、現実生活でなにかの役にたつとはあまり思えないよ。たしかに。(中略)でもいいかい、君は家出をするんだ。そうなれば、これから先学校に行く機会といってもたぶんないだろうし、教室で教わることは好きも嫌いもなくひとつ残らず、しっかりと頭の中に吸収しておいたほうがいいぜ。君はただの吸い取り紙になるんだ。なにを残してなにを捨てるかは、あとになってきめればいいんだからさ。
 僕はその忠告に従った(中略)。意識を集中し、脳を海綿のようにし、教室で語られるすべての言葉に耳をすませ、頭にしみこませた。それらを限られた時間の中で理解し、記憶した」(新潮文庫上巻、19~20頁)
 この一節を呼んだとき、これは村上から十代前半の子供たちへの真摯なメッセージだなと思い、私もとても共感した。
梅田望夫『ウェブ時代をゆく』ちくま新書,pp.233-4〕

■公教育関係者は、ないてよろぶだろう(笑)。■村上春樹が、半生をふりかえって、後悔のうらがえしとして一般的可能性をかたっているのか、それとも少年時代の実体験にふかく感謝の念をあらわしているのか、しらない。しかし、それが空想上のものであれ、実体験からの経験則にしろ、それが公教育賛歌であることは、うたがえない。かりに「吸い取り紙」のように、指示を吸収してくれたら、教師冥利につきるだろうし、すくなくともクラスにひとりぐらいは、そういった生徒がいてくれたらと夢想する教師は無数にいるだろう。
■しかし、筆者の分身かもしれない カフカ少年の実践は、クラスにひとりいるかどうかの能力を必要とするたぐいのものだ。学校むきでない頭脳は、クソまじめに、カフカ少年のマネをしようとして、ことごとく失敗におわるというのが定番だ。■皮肉っぽい教員の普遍的な経験則は、自由な座席のばあいに、かぶりつきの最前列の気まじめな学生たちは、ポイントを大概ハズし、後方入り口と対称の位置あたりに、ひっそりと、ひややかな視線をおくる部分が、もっとも冷酷かつ適切な授業理解をしているというものだ(笑)。■主観的に集中力をかたむけるものと、要領よく、授業のながれを俯瞰する能力は、別個に共存する。むしろ、45分間ないし90分間集中力をきらさないように、などとおもいこむ生徒こそ、要領のワルさを象徴しているかもしれない。
■要するに、「吸い取り紙」のように、指示を吸収してくれたらというのは、指導力・気迫のない教員のみがってな夢想であることが大半であり、そういったハンパな教員の指示など、それこそ、「吸い取り紙」のように吸収したら、エラいことになるようなたぐいの水準にきまっている(笑)。■いや、「教師の専門性に基づく『責任と権限』」にまかせきるといわれたときに、全然とまどいもなく教科教育をデザインきしれる教員がどれくらいいるだろうかと、疑義を呈しておいたのとおなじように、「吸い取り紙」のように、指示を吸収されたらこまる教員だらけではないのか? 「そんなことはない」と ちからづよく反論・否定してほしいが、どうもちがうようにおもえる。■逆にいえば、「吸い取り紙のように、指示を吸収してくれて結構。というか、その意気ごみのないものの参加はことわる」と断言できるような実力・気迫・自信が維持されないかぎり、教科内容の取捨選択に責任などもちかねるとおもうのだがね。
■「自分は研究者であって、学部教育は余業」などと、うそぶいて省エネ講義をくりかえす、有名な先生方がいたように、大学教授たち自身が、そういった真剣味をそなえていないばあいがすくなくないのに、日本列島の授業空間のどこに、そういった ごリッパな先生が実在するのだろう。■カラス少年→カフカ少年という、公教育擁護論は、妙なかたちで、皮肉な結論をみちびきだす。
スポンサーサイト

<< 防衛省職員を参考人聴取 ガス弾処理事業めぐり東京地検(朝日) | ホーム | 教科内容の選択権3 >>


コメント

論理について

論理とは都合の良い結論に意図的に誘導するための弁論術のたぐいではなく、客観的な真理により近づくために考え出された技術です。2500年ほど前におそらくパルメニデスとエレア派によって創始されたものと考えられています。現代に至るまでにさまざまな発展を遂げましたが、いまだに不完全であることはよく知られています。

しかし、大衆を惑わすための詭弁などは、正統な論理の基本を身に付けていれば簡単に見破ることができます。そのような意味で論理の基本を身に付けることは重要であると考えています。

最近、気になっているのは「空気を読め」という言葉がさかんに言われていることです。歴史を振り返ってみると「空気」で行動して破滅した例は枚挙にいとまがありません。

あえて「論理を読め」と主張したいと思います。

ごあいさつをおこたりまして、欠礼いたしました

umetaniさま
■関連記事全部のリンクをたまわり、恐縮しております。■当・日記は、かならずしも論理学的導入を擁護する文脈になく、むしろ公教育の空洞化の象徴的な実例として、ネタあつかいで、失礼なあつかいをいたしましたため、もうしわけなくおもっております。
■当方は、フランスのリセで実際につかわれた哲学テキストだという、オンフレ『〈反〉哲学教科書』(http://tactac.blog.drecom.jp/archive/68)を紹介するなど、広義の哲学教育にはおおいに賛同するものです(オンフレの死刑論には、批判的ですが)。■しかし、旧制高校時代に哲学書をよみふけったという、某新聞人の非哲学的な言動をみるにつけても、あるいは、哲学書などとは無縁なはずの、わかて漫才師などの知性のひらめきをみるにつけても、古典的素養・学習は、哲学的知性の必要条件でも十分条件でもないと、おもうわけです(笑)。■まして、数学でまなばされる、ひからびたかたちでの論理の過程など、有害無益だとおもいます(小生個人は、受験勉強のなかで、「これは つかえそうだ」と、統計学・確率論などともに直感できたので、幸運でしたが)。

■それと、参照いただけているとおもいます「詭弁・合理化・誤謬1」(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-56.html)、「詭弁・合理化・誤謬2」(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-57.html)とも、かぶる論点ですが、日常的な「ダマし」の技法に対する自衛策として、公教育の数学などは実に無力というか、実践的な応用力がなさすぎます。■おそらく、「ダマし」の技法に対する自衛策として、多少意味があるのは、大学の教養教育での経済学や社会学ぐらいでしょう。「誤謬」問題や「統計のトリック」「錯覚」問題をこのんでとりあげる、皮肉屋の先生方がおおいので(笑)。

■「空気をよむ」能力問題は、現代社会のいきぐるしい「イジメ空間」をいきぬくコドモたちにとって、残念ながら必要悪なのだとおもわれます。「空気をよむ」能力とは、イジメられない能力≒イジメのがわにたつか、傍観者としてたちまわる能力なわけで。■したがって、スジみちたててかんがえる能力とか、スジみちたてないと気がすまない性格の育成といった問題ではなく、「同質性のたかい空間=社会学的密室での、サバイバル技法と その政治性」という、社会学/教育学的現象の問題と、論理的思考能力の有無問題は、別個の次元にあると、かんがえるべきではと。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 BLOG TOP 


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。