プロフィール

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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天皇誕生日2=祝日の意味再考23

■「祝日の意味再考」シリーズ(日記内旧ブログ内)のつづき。■旧ブログ「天皇誕生日」関連記事のひとつ、「祝日の意味再考7:天皇誕生日」、日記内記事「天皇陛下ご即位20年 国民の「臨時祝日」はなし(産経)=「ムダ」とはなにか60」の続報。
■天皇誕生日関連の記事で、おそらく「陛下」という表現以外、一番距離をおいたとおもわれる淡々として報道記事を転載。


厳しい経済情勢「心痛む」 天皇陛下、76歳に
『朝日』2009年12月23日5時1分

即位20年の記帳簿と天皇、皇后
全国各地から寄せられた即位20年の記帳簿と天皇、皇后両陛下
=皇居・御所、宮内庁提供


 天皇陛下は23日、76歳の誕生日を迎えるにあたり、感想を文書で公表した。今年は結婚50年や即位20年の会見をそれぞれ行ったため、恒例の誕生日会見は行われなかった。

 陛下は1年を振り返って思い起こされることとして、厳しい経済情勢を真っ先に挙げ、「住む家を失った人々もあり、心の痛むことでした」と案じた。新型インフルエンザについても案じつつ、「流行が抑えられることを期待しています」と記している。

 さらに、豪雨や台風などの自然災害で犠牲になった60人を超す人々の遺族を思いやり、今年スタートした裁判員裁判については「今後の様子を期待を込めて見守りたいと思います」と記した。

 昨年12月来のご自身の体調には、日程や行事の内容を少し軽くしてこの1年を過ごしてきたと振り返ったうえで、「昨年12月の体調よりは良くなっていますので、来年も今年のように過ごし、皆に心配をかけないようにしたいと思っています」とつづった。

 この20年間について、「我が国の人々は様々な困難を乗り越えてきました」と振り返りつつ、助け合いながらよい社会をつくるよう努める国民の姿に「深い感動を覚えます。私どももこのような国民に支えられ、日々の務めを行っていくことに幸せを感じています」としている。

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■国民各層への 「おもいやり」に ソボクに感動する層は、そこそこいるんだろうが、「天皇機関説・皇室機関説」というコメント欄での文でもかいたとおり、公務等で、おおいそがしというのは、わるいけど自業自得といった感がぬぐえない。■皇室関連の公的資金の消化のされかたが詳細に財務諸表などとして公表され、さまざまな公務・諸活動の政治的意義を経済的に「試算」したとき(どう数値化するか難題だが)、それでもなお、費用対効果として充分皇室は維持すべきという見解にとどまれるかどうか、有権者に投票させるとおもしろいとおもう。■ハラナの予想では、20代にかぎるなら、過半数とれないんじゃないかとおもう。 ■無論、皇室関連予算全部を、たとえば、失業対策だの、母子家庭への助成金などとしてつかうといっても、それほど「ありがたみ」を感じられる程度の規模にならないだろうことも充分わかる。■しかし、民主党政権にかわって、激烈な「仕分け」作業がおこなわれているなか、皇室関連予算は、「聖域」として、当然度外視されているだろうことをかんがえれば、それこそ「いかがなものか?」という疑念が、新聞の投稿欄などで、たたかわされるのが当然だとおもうんだが。

“30日ルール”とやらにしても、たとえば、自民党政権時代には、事実上政治利用として外交上のシンボルとしてつかっているにせよ、ねまわしなど準備が長期間にわたって周到にねられ、たとえば対米関係など、それこそ保守派をなっとくさせるようなチャンネルだけに動員されていたんじゃないだろうか? ■民主党政権にかわったことと、対中国外交に動員した、という「くみあわせ」に、“30日ルール”違反が、ボコボコ状態をまねいた気がするんだが、ちがうだろうか?
■ただ、国税をつかって皇室の尊厳を維持しようなんてケチな了見にこだわるあまり、過労死になりかねないような「公務」のつめこみは、もうやめたらいいとおもう。再三かいてきたとおり、京都の御所あたりにみんなでひっこんで、短歌有職故実やら公家文化の代表者・家元として、NPOをたてれば、充分くっていけるはずだし。■そうやって、東京を撤退して、「公務」「国事行為」から完全にてをいひいて「隠居」するんなら、過去の歴代天皇の「負の遺産」の清算とかまで、追及するまでもないとおもう。

■ちなみに、「1948年 - 極東国際軍事裁判で死刑判決を受けたA級戦犯7名の絞首刑執行。皇太子(今上天皇)の誕生日に処刑執行日を合わせた。」(ウィキペディア「12月23日」)とあるとおり、アキヒト氏は、こころやすらかに 自身の誕生日をいわう気にはなれないはずである。■かぞえどし(数え年)で元旦に加齢していく伝統をすてさり、満年齢式の「誕生日」をいわうというシステムを欧米から「輸入」した明治政権(「天長節」)が、かかえこむ、抑圧された「記念日」となったのである。日本国民は、王党派であるにしろ、そうでないにしろ、こういったアメリカの イジワルを直視すべきだろう。それに全然ふれようとしない、「朝日」をはじめとする大マスコミは、かってな自粛をくりかえす「ハイパー独裁」の にないてたちというほかない。


天皇陛下お誕生日に際し(平成21年)

天皇陛下のご感想

 この1年を顧みて,まず思い起こされるのは,世界的な金融危機に端を発した我が国の厳しい経済情勢により,多くの人々が困難な状況に置かれたことでした。住む家を失った人々もあり,心の痛むことでした。また5月以来流行が心配されていた新型インフルエンザは秋になって患者数が増加し,来年がどのような状況になるのか案じられます。ワクチン接種などが進み,流行が抑えられることを期待しています。
 今年も豪雨や台風など自然災害により60人を超す人々が亡くなりました。家族を失った人々の気持ちはいかばかりかと察しています。5千人以上の命が失われた伊勢湾台風から今年は50年になります。当時ヘリコプターに乗って,上空から,一面水に浸った被災地の光景に接したことや,木曽川,長良川,揖斐川の木曽三川(さんせん)の氾濫(はんらん)の災害を受けた長島町の町長の話を聞いたことなど,痛ましく思い起こされます。豪雨や台風については近年予報が詳しく報ぜられるようになり,これまでの治山治水の効果と合わせ,災害による犠牲者数は減少してきましたが,いまだに年間数十人の犠牲者が生じることは非常に残念なことです。防災関係者の尽力とともに,国民の防災に対する関心が更に高まることを期待しています。
 今年の夏から,裁判員制度が実施されるようになりました。かつて昭和初期に我が国でも短期間陪審制度が行われたことは,戦後間もないころ,当時の穂積東宮大夫,後の最高裁判所判事から聞いたことがあります。しかし,この制度は日本にはなじまなかったということでした。この度の制度は,以前の陪審制度とは異なり,裁判官と一般の人が共に裁判に参加するという制度であり,今後の様子を期待を込めて見守りたいと思います。
 7月には総督閣下の御招待により皇后と共にカナダを訪問しました。私自身は56年前,エリザベス女王陛下の戴冠式に参列するため,英国に赴く途次,カナダを訪れましたが,これは結婚前,私がまだ19の時でした。この度の訪問では,カナダが良好な環境を守り,この地に住む様々な民族を大切にしながら国を発展させている姿に接し,今日のカナダへの理解を深めることができました。私どもを温かく迎えてくださった総督閣下を始め,この訪問に心を寄せられたカナダの人々に心から謝意を表したく思います。
 昨年は12月初めに体調を崩し,静養期間の間に誕生日を迎えました。多くの人々が心配してくれたことを感謝しています。そのようなことから,今年は日程や行事の内容を少し軽くするようにして過ごしてきました。昨年12月の体調よりは良くなっていますので,来年も今年のように過ごし,皆に心配をかけないようにしたいと思っています。
 本年は,私の即位から20年,私どもの結婚から50年という節目の年に当たりますが,4月の結婚50年に際して,また,11月の即位20年に際して,多くの人々から祝意を寄せられたことに深く感謝の意を表します。
 この20年間も,我が国の人々は様々な困難を乗り越えてきましたが,人々が高齢化の著しい社会状況に対処しつつ,助け合って良い社会をつくるよう努める姿に接する時,深い感動を覚えます。私どももこのような国民に支えられ,日々の務めを行っていくことに幸せを感じています。


この1年のご動静

 今年は,天皇皇后両陛下には4月にご結婚50年を迎えられ,また11月には陛下のご即位20年の祝賀行事がありました。7月には2年ぶりに外国ご訪問があり,カナダ及びハワイへ2週間にわたる公的なご旅行をなさいました。したがって,例年の諸行事にこれらの関連行事が加わり,例年にも増してお忙しい1年となりました。

 陛下はこの1年も国事行為としてほぼ毎週2回のご執務を行われ,内閣よりの上奏書類883件にご署名やご押印をされました。そのほか,宮殿では恒例の講書始の儀及び歌会始の儀にご臨席になり,親任式(内閣総理大臣1名),認証官任命式(国務大臣始め76名),信任状捧呈式(24名),勲章親授式(大綬章,文化勲章)及び勲章受章者の拝謁など多くの儀式や行事に臨まれました。また,総理大臣ほかの内奏や厚生労働事務次官,日銀総裁などのご進講も受けられました。また,皇后陛下とご一緒に各界優績者の拝謁のほか,午餐や茶会など多くの行事に臨まれました。4月10日のご結婚記念日には,皇族各殿下,元皇族,ご親族,内閣総理大臣始め三権の長,外交団長などの夫妻からの祝賀をお受けになったほか,本年中に結婚満50年を迎える夫妻約100組を宮殿にお招きになり,共にお祝いになりました。天皇陛下ご即位20年については11月12日に宮殿にて皇族各殿下,元皇族,ご親族の祝賀をお受けになったほか,13日には内閣総理大臣を始め各界の代表者,14日には各国の外交使節団の長などを茶会にお招きになり祝賀をお受けになりました。
 外国からは5月にシンガポール国大統領夫妻が国賓として来日し,両陛下は宮殿にて歓迎行事に臨まれ,宮中晩餐を催されました。また,公式実務訪問賓客で来日したブルガリア国大統領夫妻,カタール国皇太子殿下,イタリア国及びオーストリア国大統領夫妻、ハンガリー国及びトルクメニスタン国大統領のために宮殿で午餐を催されたほか,セーシェル国,パキスタン国及びペルー国の大統領,フィリピン国及びウルグアイ国の大統領夫妻とご会見になりました。また,ヨルダン国王陛下,アメリカ合衆国大統領は,御所でのご昼餐にお招きになりました。そのほか,アイルランド国,ラトビア国,東ティモール国及びオランダ国の首相,ニュージーランド国の首相夫妻,ベトナム国の共産党中央執行委員会書記長,中華人民共和国の副主席をご引見になりました。外国国会議長のご引見は,東ティモール国,ラトビア国及びタイ国の3か国でした。新任の外国大使夫妻を招かれてのお茶,日本滞在が3年を超える外国大使夫妻のための午餐,離任する外国大使夫妻のご引見は例年どおり行われました。

 御所では両陛下で恒例の日本学士院会員,日本芸術院会員,文部科学省研究振興局長及び同伴する研究者,青年海外協力隊及びシニア海外ボランティア帰国隊員,国際交流基金賞受賞者などとお会いになったほか,定例の外務省総合外交政策局長によるご進講や各種行事に関するご説明が合わせて46回ありました。そのほか,勤労奉仕団,賢所奉仕団や新嘗祭のための献穀者に対し56回のご会釈がありました。

 都内でのお出ましとしては,陛下は国会開会式に臨まれ,また,両陛下にて全国戦没者追悼式を始め,毎年ご臨席になっている日本国際賞,国際生物学賞,日本芸術院賞,日本学士院賞などの授賞式のほか,今年も数多く行われた各種周年式典などへのご臨席がありました。11月12日には天皇陛下御在位二十年記念式典が国立劇場で行われ,お言葉を賜ったほか,夕刻には皇居前広場で国民祭典が行われ,両陛下には二重橋にお出ましになり,広場に集まった約3万人の国民の祝意におこたえになりました。今年は全国豊かな海づくり大会が東京で行われたため,会場となった東京海洋大学品川キャンパスでの式典行事にご臨席になり,併せて同大学をご視察になりました。

 今年の公的な地方行幸啓は,2府6県(埼玉,神奈川,福井,茨城,新潟,千葉,大阪,京都)にわたりました。全国植樹祭(福井) ,国民体育大会(新潟)などにご臨席になったほか,地方の文化,福祉,産業の事情をご視察になりました。今年は横浜開港150周年に当たり,5月に記念式典にご臨席になりお言葉を述べられたほか,横浜開港資料館をご視察になり,8月には,つくば市で開催された2009アジアサイエンスキャンプをご訪問になりました。また,11月にはご即位20年に当たり近畿地方の関係者を京都御所にお招きになり茶会を催され,その折に大阪・京都の地方事情をご視察になりました。この1年間に公的に地方行幸啓先でご訪問になった市町村数は12市,1町になります。

 両陛下は7月3日より14日まで国賓としてカナダをご訪問になり,帰路アメリカ合衆国ハワイ州を訪れられ,17日にご帰国になりました。カナダへは昨年の日加外交関係樹立80周年の節目の年を迎えてのご訪問でした。東海岸ではオタワ市とトロント市を,西海岸にご移動になってビクトリア市,バンクーバー市の4都市をご訪問になりました。オタワ市では総督夫妻の,またトロント市及びビクトリア市ではそれぞれ副総督夫妻の歓迎をお受けになったほか,各ご訪問先で関係者にお会いになり,一般市民とご交流を持たれ,歓迎におこたえになりました。また,カナダの日系人は約5万人を数えますが,ご訪問の各都市で多くの日系人の歓迎を受けられ,日系文化会館など幾つかの日系人施設をご訪問になり,関係者からこれまでの体験をお聞きになるとともにその苦労をねぎらわれました。
 ハワイでは両陛下のご結婚を祝して設立された皇太子明仁親王奨学金財団の50周年記念晩餐会に臨まれ,約1,600人の参加者と一時を過ごされました。同基金による奨学金は,選抜されたハワイ大学学生・大学院生の日本留学並びに日本人大学院生のハワイ大学への留学に支給され,両陛下はこれらの奨学生に毎年御所でお会いになってこられました。今般,このうちの多数の奨学生と再会され喜びを共にされました。

 本年2月よりご負担軽減のためご公務及び宮中祭祀に関わる調整・見直しを実施しました。

 ご公務に関する主な変更点は以下のとおりです。
○毎年行幸啓のある全国植樹祭,全国豊かな海づくり大会,国民体育大会,日本国際賞授賞式,国際生物学賞授賞式はご臨席のみとし,お言葉はなしとする。
○首相,副大統領級の外国賓客は原則として公賓及び公式実務訪問賓客の場合のみご引見の対象とする。
○外国国会議長のご引見の回数はしかるべき調整を図る。(ちなみに昨年は9件ありました。)

 宮中祭祀につきましては,新嘗祭について「夕の儀」は従来どおり出御になるとし,「暁の儀」は時間を限ってお出ましいただくこととなったほか,毎月1日に行われる旬祭については5月1日及び10月1日以外は,ご代拝により行うこととなりました。

 以上の見直しから約1年が経過しましたが,陛下は11月の記者会見でも述べられたとおり,このままお務めを続けられるご意向と拝察しております。
なお,昨年末から年初にかけご体調を崩されたため,一部ご公務・宮中祭祀をお休みになりましたが,それはご不例のためであり,上記ご負担軽減は2月から実施されました。

 陛下は,今年はお忙しくご研究にあまり時間を割くことはおできになりませんでしたが,7月には,東京海洋大学水産資料館にお出ましになり,陛下のこれまでのご研究を展示した企画展をご覧になりました。また,日本魚類学会には東京の近郊で行われる年には原則的に参加されていますが,今年は東京海洋大学品川キャンパスで行われたため3年ぶりにご出席になり多くの研究者と楽しい一時を過ごされました。

 天皇陛下は例年のとおり,皇居内生物学研究所の田で稲の種籾(たねもみ)のお手まき,お田植え,お手刈りをなさいました。神嘗祭に際しては,お手植えになった根付きの稲を神宮にお供えになり,また,新嘗祭には,お手刈りになった水稲及び粟(あわ)の一部を神嘉殿の儀にお供えになりました。

 陛下は平成15年の前立腺がんのご手術後,再発に対するご治療としてお続けいただいているホルモン療法の副作用として骨密度低下による骨粗鬆症(こつそしょうしょう)発症の予防を始めご健康維持のため,ご運動に努めていらっしゃいます。早朝には御所の近くを,また日曜日の朝には東御苑をご散策になっていらっしゃいます。また,テニスなどのご運動も努めてなさっていらっしゃいます。

 天皇陛下は12月23日,76歳のお誕生日をお迎えになります。

 当日陛下は,午前9時に賢所における天長祭の儀のご拝礼をお済ませの後,午前は皇族方を始めとし,5回にわたり祝賀をお受けになり,また皇族方とお祝酒を共にされます。なお,この間3回にわたり長和殿ベランダに立たれ国民の参賀におこたえになります。午後は,三権の長,閣僚,各界の代表者との宴会に臨まれ,その後,元側近奉仕者などとの祝賀及びお祝酒,次いで外交団を招かれての茶会の後,御所に戻られ侍従職職員から祝賀を受けられます。夕方にはお孫様方の祝賀を受けられ,この日の最後の行事であるご進講者,ご関係者との茶会に臨まれた後,皇后さま,お子様方とのお祝御膳をおとりになります。



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タグ : ナショナリズム 天皇制 ハイパー独裁

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コメント

猪瀬直樹『ジミーの誕生日―アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」』

2009年12月23日発行 第0578号 特別
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 ■■■    日本国の研究           
 ■■■    不安との訣別/再生のカルテ
 ■■■                    編集長 猪瀬直樹
**************************************************

http://www.inose.gr.jp/mailmaga/index.html

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   ◆◇◆        猪瀬直樹最新刊        ◆◇◆
 ◆◇『ジミーの誕生日―アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」』◇◆
◆◇◆         (文藝春秋)税込1500円         ◆◇◆
 
   
   昭和23年12月23日、真夜中の巣鴨プリズン。

   時計の針が午前零時を回るとともに、7人の男たちは13階段を昇り始めた。

   東條英機、土肥原賢二、武藤章、松井石根、板垣征四郎、
   広田弘毅、木村兵太郎。

  「大日本帝国万歳! 天皇陛下万歳!」

   最期の声が、凍てつくコンクリートに響いた。

   ・・・だが、なぜ彼らはその日に処刑されなければならなかったのか?
   その日は、皇太子明仁の15回目の誕生日だというのに・・・。

               *

   猪瀬直樹からのメッセージ。
  「これは単なる偶然ではない。皇太子明仁の誕生日に東條英機が処刑されたという歴史的事実をひとつの暗号とみて戦後史を読み解くべきではないか」

   http://www.amazon.co.jp/dp/4163721304

               *

  先週に引きつづき各紙に続々と書評が掲載されています!
              
 「スポーツニッポン」(12月23日水曜日付)、「東京新聞」(12月20日日曜日付)、「WILL」2月号(12月21日月曜日発売)、「GOETHE」2月号(12月24日木曜日発売)、「日刊工業新聞」(12月21日月曜日付)、「朝日中学生ウィークリー」(12月20日月曜日付)、「朝日小学生新聞」(12月22日火曜日付)など、ぜひ手にとって下さい。

 「文藝春秋」1月号(12月10日木曜日発売)の論考『「ジミー」と呼ばれた天皇明仁の呪縛』もあわせてどうぞ。

               *

  さらにブログでも『ジミーの誕生日 アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」』がとりあげられています。その一つをここで紹介させていただきます。

 Espresso Diary@信州松本
 http://blog.livedoor.jp/takahashikamekichi/archives/cat_50001257.html

               *               
 
 本日のメールマガジンは、「週刊現代」12月26日・1月2日合併号(12月14日月曜日発売)に掲載された著者インタビュー「『12・23 天皇誕生日』になぜA級戦犯は処刑されたのか」をお届けします。

―――――――――――――――――――――――

「『12・23 天皇誕生日』になぜA級戦犯は処刑されたのか」

――猪瀬直樹氏が上梓した『ジミーの誕生日 アメリカが天皇明仁に刻んだ
「死の暗号」』(文藝春秋)が話題を呼んでいる。

 まるで歴史ミステリーのような“謎かけ”から始まる本作は、戦中・戦後の
日本国内の混乱と人びとの苦悩を描き出すと同時に、GHQ(連合国軍総司令
部)の司令官だったダグラス・マッカーサーが敗戦国・日本に背負わせた、巨
大な“十字架”の秘密に迫っていく。

○猪瀬● 「ジミー」とは、本書のサブタイトルからも連想できると思いますが、天皇明仁、つまり今上天皇のことです。僕は1980年代に『天皇の影法師』や『ミカドの肖像』を書いた経験から、学習院時代の皇太子明仁に英語教師バイニング夫人がつけたニックネームが、「ジミー」だということを知っていたんです。

 ではなぜその誕生日が「暗号」になるのか。実は皇太子明仁の15歳の誕生日だった昭和23年12月23日に、東條英機ら7人のA級戦犯が巣鴨プリズンで処刑されているのです。

 僕は、この日付の符合が果たして偶然なのか、ずっと気になっていました。今作では、この長年抱いてきた「謎」の答えに、迫ることができたと考えています。


■マッカーサーの時限装置


――東條英機元首相らの処刑は、昭和23年12月23日に日付が変わった直後の午前0時1分30秒に実行された。元首相らが獄房から出され、教誨師による最後の祈り、バンザイ三唱などを経て、絞首刑台の前に立たされたのが午後11時59分……。

○猪瀬● これらの事実からは、GHQサイドが事前に準備を整え、綿密なシ
     ミュレーションを行なっていたことが窺えます。彼らは、紛れもな
く「12月23日」という日付に意味を込めて、A級戦犯を処刑したのです。

 もともと、このように「記念日」を重視するというのは、GHQの占領政策の特徴でもありました。昭和23年にA級戦犯が起訴されたのは、昭和天皇の誕生日である4月29日。現行憲法が施行された昭和22年5月3日は、その1年前に東京裁判が開廷された日です。だから12月23日にA級戦犯が処刑されたという事実も、明確な意図が込められていないはずがないのです。

――『ジミーの誕生日』では、マッカーサーらが、本国=アメリカや他の連合国の意思が錯綜する中で、いかに“安く効率的に”日本を支配するか、陰謀と工夫を巡らす姿が描かれる。新憲法の制定を急ぐGHQが、独自憲法にこだわる吉田茂元首相らの元に直接赴き、あらゆる手練手管と恫喝の手法を使ってGHQ案の憲法を呑ませる場面などは、本作の見どころの一つとなっている。

○猪瀬● 当時、連合国側には「ヒロヒト」と「ヒトラー」を混同するような雰囲気もあり、ヒトラーと同様に、「天皇の責任を追及せよ」という意見も根強かった。しかし、日本通でもあったマッカーサーは、そうした声を無視して、あくまで「占領コスト」を優先しました。

 終戦前後の日本社会は、敗戦を受け入れられない元軍部らによる、武装蜂起が起きる可能性も孕んでいた。実際、そうした暴動やテロを恐れ、皇太子は側近らによって奥日光に疎開させられ、緊急時には「山越え」をする準備と訓練まで行なわれていました。

 マッカーサーにとって、日本社会が速やかに秩序を取り戻し、米国中心の占領政策を進めるためには、天皇の存在を利用しない手はなかった。だから天皇からは権力を取り上げ、権威だけを残す形にしました。

 しかし、その一方でマッカーサーは、天皇の責任を完全に否定したわけではなかった。死刑判決を受けた東條らには「われわれは天皇を裁かないが、代わりにお前たちを裁く」という背景を、東京裁判の過程で十分に理解させています。そしてその上で、昭和天皇と当時の皇太子には、「あなたたちも戦争責任と無関係ではない。それを忘れてはならない」という重大なメッセージを送りました。

 それこそが、昭和23年「12月23日」という、皇太子明仁の誕生日に処刑日をぶつけた理由なのです。


■十字架を背負わされた


――運命の日、皇居では皇太子の15歳の誕生祝賀会が催されるはずだった。だが、未明に行われた東條元首相らの処刑に昭和天皇は衝撃を受け、歓談の声で沸くはずの皇居は、終日静まり返ったままだったという。

○猪瀬● 皇太子、つまり今上天皇にしてみれば、天皇誕生日が来るごとに処刑されたA級戦犯のことを思い出すわけですから、これはマッカーサーが日本に仕掛けた、壮大な「時限装置」だったと言えます。

 ただ、さすがのマッカーサーも昭和天皇が87歳まで長生きするとは予想していなかったのでしょう。終戦から10年、20年くらいで亡くなっていれば、「新天皇の誕生日はA級戦犯の処刑日なのだ」という事実がクローズアップされ、「時限装置」が激しく作動して、日本人全体にあらためて、戦争責任を思い起こさせる作用があったでしょう。

 ところが、皇太子が即位したのはそれから40年以上も経ってからだった。ほとんどの日本国民は「天皇誕生日が4月から12月に移った」くらいの感覚しかなかったはずで、マッカーサーの仕掛けは、ある意味で不発に終わりました。

 でも時限装置の存在を、決して忘れなかった日本人が一人だけいるはずです。

 自分の15歳意の誕生日に、戦争責任を背負って処刑された人たちがいる――。この事実は、絶対に忘れることはできません。今上天皇は、若い頃から、沖縄やサイパンといった国内外の激戦地に足を運んで、戦没者を慰霊して回っています。マッカーサーによって自身の誕生日に刻印された「十字架」を、十分に自覚しているからなのでしょう。

――本作で特筆すべきは、こうした「秘められた歴史の真実」に迫るきっかけが、「ある貴婦人の日記」だということ。この子爵夫人は魅力的な女性で、終戦前後の混乱期を、良家の子女とは思われない逞しさと機知で乗り切っていく。 そんな子爵夫人がなぜ日記に「ジミーの誕生日」という、歴史を検証する上で極めて重大な一文を残すことになったのか。この貴婦人がとった行動は、ある意味で非常に現代的なものでもあり、そこに到る人間ドラマも、この作品の“キー”の一つになっている。

○猪瀬● 僕が以前著した『天皇の影法師』や『ミカドの肖像』も基本的には
     「謎解き」の物語です。これは僕の個人的な見解として、本という
のはたとえノンフィクションのジャンルに入る作品であっても、読者には手に
汗を握るような感覚を味わって欲しいと考えているからでもあります。

 だから今回の作品には、部分的に意図的な「仕掛け」を施してあります。もちろん、歴史上の事象に関しては、すべて事実です。しかし、より多くの人に楽しんでもらえたらと考え、ある種の「味付け」を意識的にしている箇所があります。

 僕は東京工業大学で講座を持っていることもあり、最近の若い人たちが、あまりに日本の近代史を知らないことに危機感を覚えています。大学で50人程の学生に「高校で日本史を履修した人は?」と尋ねたら、なんと4人しかいなかった。

 いまの日本は、歴史の積み重ねをみんな忘れてしまっているから、まるで“一国ディズニーランド”状態です。機関銃を抱えたアメリカ兵に門番をしてもらっているのに、自分達は浮世離れした架空の世界に引きこもっている……。

 日本人の劣化を食い止めるためには、自分たちの歴史をきちんと知る必要がある。われわれは、みんな歴史の地層の上に存在している。歴史を背負っているのは何も天皇だけじゃない。足下をじっと見つめ、自分が背負っているものをもう一度、考えてみる。この本をきっかけに、一人でも多くの人が「自分たちの歴史」に目を向けてくれればいいと思っています。

              (「週刊現代」12月26日・1月2日合併号掲載)

「日本国の研究  不安との訣別/再生のカルテ」(猪瀬直樹)続報(2010年01月07日発行 第0580号 特別)

「GHQはその日を選んだ」

 戦後史の秘史を題材にした物語である。となるとこの分野でも数々の秀作を生み出してきた著者が今度はどんな執筆動機、刊行の経緯からこの本を書いたのか、そこを知りたいと思う読者は、まず「まえがき」や「あとがき」を探すに違いない。

 ところが、本書にはそれに該当する頁はない。わずかに最終頁に「子爵夫人に関わる記述に一部フィクションを加えてありますが、この物語はすべて事実にもとづいています」とあるだけだ。

 読者へのある種の不親切を顧みず、著者が「まえがき」や「あとがき」を省いた意図は、頁を繰れば次第に見えてくる。そんな仕掛けである。執筆動機や刊行の経緯を物語の展開の道具仕立てに使うという巧みな構成、熟達した筆運びから、読者は一級の歴史ミステリーを読む醍醐味を味わうことができるだろう。

 表題の「ジミー」は現天皇のことだ。十二歳の皇太子時代、アメリカ人の英語教師がつけたニックネームである。「ジミーの誕生日の件、心配です」と書かれた子爵夫人の日記を、孫に当たる女性が、『天皇の影法師』『ミカドの肖像』の著作がある著者に託して謎の解明を依頼するというスタイルを取っている。

 誕生日は十二月二十三日だが、昭和二十三年のこの日、A級戦犯七人の絞首
刑が執行された。A級戦犯二十八人に東京裁判の起訴状が伝達されたのも、同二十一年四月二十九日、つまり昭和天皇の誕生日だった。それは偶然ではない。連合国軍総司令部は、なぜ、どんな狙いから、さらに誰の記憶に何を刻み込む目的で「ジミーの誕生日」という日を選んだのか。

 これ以上の言及は歴史ミステリーのファンのお叱りを受けそうなので控えたいが、蛇足を承知で一言。子爵夫人が書いた回想記『私の足音が聞える』(同六十年刊)という本の帯には、「マッカーサーの片腕ケーディス大佐の愛人と喧伝された元子爵夫人」とある。

(『東京新聞』09年12月20日日曜日 評者・塩田潮)


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「12月23日」にマッカーサーが刻印した日本を支配するための米国の「操縦装置」

 新年の平成22年は「日米安保改定」50年の節目、折りしも政権交代によりアメリカ依存の日米関係がその形を変える可能性を秘める重要な年となる。戦後65年にわたりアメリカ追従を貫いたのは、何も保守を中心とした為政者たちばかりではない。

 市民もまた、アメリカを慕い続けてきたのは疑いのない史実だ。日常生活の此処彼処に、アメリカの思惑がビルトインされていたからである。

 それらは敗戦後の約7年間、日本が占領された時代、連合国軍総司令部(GHQ)によって仕組まれたものだった。そのカラクリをいま検証することは、今後の「国の形」を決めるにあたり、重要な鍵を握る。

 わたしは戦後すぐ明治神宮隣に存在した約28万坪の米軍家族住宅「ワシントンハイツ」に注目し、東京の原宿表参道界隈に意図的に形成されたアメリカ化の地場を探り当てた。他方、猪瀬直樹氏が本書でこだわったのは毎年訪れる「国民の祝日」。中でも今上天皇の誕生日である12月23日にアメリカの企てを読み取った。

 昭和が終わり平成が始まった20年前、それは4月29日から12月のその日へと変わった。実はそれさえも計算の上、両日にGHQが刻印したメッセージが、日本を非軍事化するためのアメリカによる操縦装置だったのではないかと猪瀬氏は指摘する。「十五歳の皇太子明仁は十二月二十三日の誕生日になにが起きていたか、あとで知ったはずである」(本書より)と猪瀬氏が言う昭和23年のその日、池袋にあった巣鴨プリズンではA級戦犯7人の処刑が執行された。本書では、その日へと向う占領下の三年あまりの日々を克明に追う。

 表題の「ジミー」は、当時皇太子だった今上天皇を指している。占領期、クエーカー教徒のヴァイニング夫人を皇太子の教師に迎えているが、英語やキリスト教を教えるにあたり、クラス全員に英語のニックネームで呼ばせた。

 太平洋戦争末期、皇太子明仁親王は同級生や侍従たちと奥日光に疎開していた。連合国軍による占領が始まる直前、護衛官たちは皇太子が「アメリカに強制拉致」される可能性をも懸念した。そのため同級生の一人を影武者に仕立てることまで検討されていた。

 敗戦後、昭和天皇は責任を感じ、退位を口にしている。実際、国際社会における昭和天皇への風当りは強かった。ワシントンも連合軍も、そして米国民も、「戦犯ヒロヒト」の処刑は必須だと考えていた。

 当時のヒロヒトは、イラクのサダム・フセイン同様、極悪非道な国家元首として米国民に刷り込まれていたからだ。

 戦後、アメリカに楯突いた独裁者たちは、米軍による拘束や処刑、自殺、亡命などの末路を辿ってきた。それに比して、昭和天皇が在位したまま生きながらえたことは、極めて稀有な例だといえよう。

 天皇温存を決めたのは、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーである。反乱なく日本軍を武装解除させ、占領政策を導くために、ヒロヒトは必要な存在だと考えたのである。そして昭和天皇もまたこの話に乗った。

 本書第四章「天皇の密約」で猪瀬氏はそれぞれの側近たちの動向を丹念に追い、この二人の心理戦をも鮮やかに浮かび上がらせている。

 中でもいち早く昭和天皇に「5分間」インタビューを行なったニューヨークタイムズ紙の記者の役割は大きい。彼の打電した記事で最大の戦犯は東條英機とされた。その後の規定路線は決まったのである。天皇の逮捕は見送られ、同時に天皇を国の象徴と位置付ける新憲法作成を急いだ。これにより天皇退位は封印された。

 天皇免訴と決定した東京裁判の起訴状がA級戦犯に届いたのは、昭和21年4月29日だった。これはA級戦犯たちに自らが大元帥と奉った昭和天皇の誕生日を確認させ、「あなた方が代わりに罰を受けるのですよ」というマッカーサーからのメッセージだったと、猪瀬氏は推測する。

 加えて東京裁判が始まったのは5月3日、新憲法施行の日だったことを考え合わせれば、その推測は信憑性を増し、アメリカ帝国の巧妙さに空恐ろしささえ覚える。

 昭和23年12月23日、東條を含む7人は露と消えた。しかも日付が変わるのを待ったかのように、その執行は午前0時1分30秒に行なわれた。昭和天皇は終日、皇居に引きこもり、皇太子明仁の誕生日は祝われることがなかったという。

 日付に込められたGHQからのメッセージは、こうして今上天皇に「十字架」として刻まれた。その日はまた今年もやってくる。

  (『SAPIO』09年12月23日・10年1月4日合併号 評者・秋尾沙戸子)

反天皇制運動連絡会より

あらたにパンフが出たようです。

http://www.ten-no.net/dance/modules/news/article.php?storyid=129

みぎ、おしらせまで。

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