■「
公教育のメタファー2」の補足であり、かつ、それへのトラックバック記事「
本田由紀を読む 2 学校経由の就職 その1 強固な実在性」および、続編「
本田由紀を読む 3 学校経由の就職 その2 90年代以降の揺らぎ」「
本田由紀を読む 4 ハイパーメリトクラシー化」などへの、おへんじ。
■
本田由紀氏については、
『「ニート」って言うな!』を中心に、
旧ブログで、何度もとりあげてきた。■なので、ここでは、本田氏の所論については、ふれない。あくまで、本シリーズへの木村先生の疑念をとき、問題点を整理することだけを目的とする。
■さて、木村先生からのトラックバックにかぎらず、「本田由紀を読む」シリーズにかかれている論点は、ごく乱暴にまとめてしまうなら、ほぼ2点に集約できるとおもう【内容的には、前回のハラナの論点と融合させてある】。
■①学校は、
従順な心身(上意下達=命令服従系の心身)をつくり、それを教員のおおくは、善と信じてうたがわないできた。■自分たち教師集団への従順さは、卒業後の工場ほか、広義の官僚システムに適応するために不可欠な態度であり、教科教育ほかをふくめて、従順さをみにつけるとは、社会への適応能力をみにつけることと同義であると。
■そこでは、教科教育が「
出藍の誉れ」などの可能性もふくめた自由・主体性の獲得を目的としないことは、いうまでもなく、広義の官僚システムに適応するための基礎知識の習得を目的ともしておらず、教科教育は、従順な心身を構築するための方便としての素材でしかない。その意味では、公教育の主目的は、教科教育によって知識をさずけることではなく、知識をさずけるという形式を墨守することで、付随的ではあるがかならずまとわりつく「
隠れたカリキュラム」としての、従順さの獲得である。
■教員は、偽善者なら、これに自覚的であり、必要悪として秩序の再生産の基礎的過程としてになう(もちろん、真の意味をかくして)し、愚鈍な層なら、自己欺瞞をともなうかたちで、真の教育の目的を、めくらましする過程に無自覚に生徒をまきこむ主体となる。■企業社会や官庁は、こういった「かくれたカリキュラム」の実践者としての教員を利用することで、みずからの組織構成員のリクルート過程の相当部分をになわせていることに、自覚的である。大学生を採用する企業が学部や専攻を事実上とわないのは、その象徴的なあらわれである。
■これらの構造は、高度成長期であろうが、高度消費社会であろうが、本質的には不変である(いや、つい20年ぐらいまえまで、不変だった)。
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