■自分や家族などの いきしににかかわること、とりわけ収入・支出であれば、相当程度「優先順位」は整然としているはずだ。■いや、むかしとはちがって、大衆の大半までもが、うえるという事態におこいまれない現代社会のなかでは、なにをたべるか、なにをきるかなどは、多分に趣味の次元に属しているかもしれない。
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赤坂真理『モテたい理由』にならうなら、おおくの女性は、男性から いかに愛されているか(いわゆる「モテ」)を誇示する同性間の競争をいきぬき、おおくの男性は、業界内での地位向上やマニアックな趣味などを誇示する、これまた同性間の競争をいきぬく宿命にあるといえるかもしれない。■これらの同性間競争(ライバル関係)は、それこそ多様に分化しているだろうが、それぞれの空間内部では、それこそ にたりよったりの 金太郎飴状態にあるのだとおもう。それこそ、各空間のなかで、差異化競争がくりひろげられていても、外部の第三者からすれば、「ほとんどおんなじ」状況なのではないか(笑)。■今月初旬にかいた「
『本能』の政治性(某ブログから)」のなかで、社会学の基本的視座として「
ある社会的属性は、統計学的な想定範囲を相当限定してくれる」を指摘しておいたが、それを援用するなら、ある属性の男女は、かなり にた趣味によって、日常的な衣食住文化を実践しているってこと。■極貧状態で調達できる消費財が極限されているばあいはともかく、ちょっとでもユトリがあれば、そこの個々人・小集団の趣味が反映されるはずだが、それでも、それは社会的に構造化されて、属性ごとに大半が想定範囲におさまってしまうだろう。
■したがって、ここ数日つづけてかいてきた 非営利的な行動にふみだす方向性も、社会的属性が「
統計学的な想定範囲を相当限定してくれる」だろうとおもわれる。かなり趣味的にバラけるはずの生活文化が、属性ごとに かなり限定されているんだから、非営利的な他者へのはたらきかけは、一層限定されているだろうとね。
■たとえばアメリカ(ヨーロッパではなく)の中産階級の保守的部分なら、教会に熱心にかよい、そこでチャリティやらバザーがあれば、よろこんで集金活動に協力するだろうとか、日本列島上の
新宗教の信徒なら、教団上層部からお布施等の指示があれば、熱心に協力するだろう…とか。
■そして、すくなくとも、一部の新宗教の教団上層部は、こういった信徒たちの熱心さを充分「計算」したうえで、集金装置・集票組織として組織を利用している。
旧ブログでとりあげたようにね。たとえば、その一部である「
宗教者のハマる「おとしあな」(原理運動だけじゃなくて)」や「
カルトな組織をみきわめるために」などでかいたとおり、「
世俗的な意味で人的・経済的収奪が合理化されているかどうか、それらが血縁など少数の特権的な層に利益が独占されているかどうか」で、それは立証されるだろう。宗教法人とか教団といった外観をとってはいるが、信徒から収奪することが主目的の支配装置なのだってね。
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