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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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「あれから40年」(内田樹の研究室)

■哲学者、内田樹御大の最近の戦後論。リンクをかってに付加。


“あれから40年”
……
新左翼学生運動というのは、幕末「攘夷」運動の3度目のアヴァターなのだ。
そのことを政治史家たちが見落としているのはいささか私には腑に落ちぬことである。
ご存知のとおり、日本における学生運動は全学連(全日本学生自治会総連合)とともに始まる。
……
その全学連を基礎づけたものは何かというと、これは「果たされなかった本土決戦」をもう一度やり遂げなければ、日本の精神的再生はありないという青年たちの「攘夷の本懐」だったのである。
全学連の中心メンバーたちはほとんどが敗戦時に小学生か中学生である。
彼らは「少国民」として皇国不敗を信じ、神風を信じ、最後の一兵まで戦うのだという大人たちの言葉を信じた。
そして裏切られた。
そのあとの「敗戦国の平和」を戦後生まれの私たちはのんびりと享受していたが、敗戦を5歳から15歳の間で迎えた私より10歳から20歳年長のこの人たちは違っていた。
彼らは何よりも熱い「恥」の感覚に貫かれたまま戦後の荒々しい社会を生きた。
そういう彼らが武装闘争路線をとった共産党の山村工作隊中核自衛隊構想に惹きつけられたのは当然である。
年長世代が放棄した「本土におけるゲリラ戦」を彼らが継続しなければ、本当の意味で戦争は終らない。
けれども、六全協で共産党は武装路線を放棄し、「ウッド・ビー・ゲリラ戦士」たちは切り捨てられた。
そのときの若者たちの途方にくれた心情は柴田翔の『されどわれらが日々』に詳しい。
だが、共産党に切り捨てられた全学連主流派はなおも「攘夷」の戦いを継続することを望んだ。
東条内閣商工相でA級戦犯だった人物がアメリカの軍事的属国になることで「国體」を延命させようとする政治工作を否とする青年たちに国民たちは敗戦国民として当然の心情的共感を寄せたのである。
しかし、国民的支援を得ながら、60年安保闘争に学生たちは敗れた。
その後、組織的な離合集散を経たあとに、再び全学連がメディアの耳目を集めたのは、佐世保闘争羽田闘争三派系全学連共産主義者同盟革共同中核派社青同解放派)が領導したことによってである。
羽田と佐世保という場所の象徴的な意味はあきらかである。
彼らは「神州の開港地に入ってきた植民地主義的洋夷を討ち果たす」ために戦っていたのである。

それが「戦われなかった本土決戦」の再演であることを日本国民に周知させるために、武器は「竹槍」以外ではありえなかった。
だから「ゲバ棒」という脆弱な材木をあえて調達したのである。
このときからデフォルトになったヘルメットも頭部保護のための実用性よりもむしろ装飾性にまさっていた。
「兜」の場合と同じように、ヘルメットの前面には「前立て」の代わりに党派名が書かれていたし、巨大な旗には「○○大学自治会」というふうに身元を示す情報が家紋よろしく大書されていた。
学生たちは無意識であっただろうけれど、彼らは戦国武士のエートスをもって「攘夷の戦い」に立ったのである。
このときに日本の若者を駆り立てたもっともつよい心情は「廉恥」であった。
1967、68年というのはベトナム戦争の激戦期である。
インドシナでは、世界最大のアメリカ軍がその最高の軍事技術を以て、痩せこけた農民ゲリラたちを殺戮していた。けれども、このゲリラたちはしばしば「竹槍」レベルの武器で一歩も譲らずに米軍と戦っていた。
ベトナム戦争は私たち日本人を恥じ入らせた。
理由の一つはもちろん私たちがベトナム戦争の米軍の後方基地となって、アジアの農業国を破壊する仕事の「余沢」に浴して高度経済成長を遂げていたという事実のもたらす「疚しさ」であった。
だが、「私は破壊の加担者だ」という告白はまだしも口にしやすいものであった。
もう一つの疚しさは意識化することにつよい抑圧が働いていた。
それは1945年の8月15日からあと日本列島で展開するはずだった「本土決戦」をベトナムの人々が粛々と継続していることに対する「日本人としての恥」の感覚である。
私たちが放棄した戦いを彼らは堂々と行っている。
自分が「卑屈で臆病だ」ということを認めることは自分の「邪悪」さや「愚鈍」さを認めることよりはるかに困難である。(「俺はワルモノだよ」とか「ぼく、バカですから」と私たちは笑いながら言えるが、「私は卑しい人間です」と言うことはむずかしい)。
けれどもベトナム戦争の報道が日々日本人に否応なしに突きつけたのは「私たちは卑しい」という事実だったのである。
どれほど経済が繁栄して、生活が豊かになっても、アメリカの「核の傘」の下で軍事的に安全になっても、「卑しい国の民」という刻印は消すことができない。
別に他の国の人たちは日本人のことをとりたてて「卑屈な国民」だと思ってはいなかっただろう。
けれども、それは日本人が自分のことを「卑屈な国民」だと思うことを妨げない。
そして、現に1970年前後、ベトナム戦争の激戦期に日本人の自己卑下はその限界に達していた。
それを癒すためには、たとえ自己破壊的な、自殺的なものであろうと、日本人自身によって「攘夷」の戦いが担われるしかない。
私たちはそんなふうに考えたのである(実際には「考えた」わけではない)。
ベトナムで絶望的な戦いを戦っている人々への連帯は「自分自身が機動隊に殴打されて血を流すこと」を通じて示すしかない、と。
だから、三派全学連の闘争に野坂昭如五木寛之大島渚たち「焼跡闇市派」の世代がつよい共感を示したのは心理的には平仄が合っている。
70年安保闘争は最終的にハイジャック爆弾テロ連合赤軍による陰惨な仲間殺しで終わったけれど、それはこの闘争全体が「私たちが私たち自身に罰を与える」という自罰的な動機に発するものだと考えると理解しうるのである。
もうあれから40年が経つ。
あの熱狂は何だったのか、今でも私はときどき考える。
そして、近代150年、日本人が「攘夷」の心情に駆り立てられるときだけ異常に行動的になるという強迫反復に改めて驚くのである。

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■新左翼の学生運動というのは、幕末の「攘夷」運動の 再現であるというモデルは、心理学者岸田秀御大による、「国家論――史的唯幻論の試み」(『ものぐさ精神分析』中公文庫所収)などで とかれているとおり、特に 異様な立論ではない。
■ただ、一貫した悲劇として ものがたりをえがいてきた岸田・唯幻論とちがって、内田・40年論は、あきらかに 悲喜劇として 距離をおいている。学生運動の主体である団塊の世代=同時代人であったからだろう。岸田御大(1934~)は、60年安保のときすでに、26歳、70年安保のときは、35歳である。もともと ほそみで 武闘派とは正反対の極にあり、またファナティックな熱情とも距離がおおきな 岸田さんにとっては、両方の安保闘争に 距離感がおおきかったとおもわれる。■対して、内田御大(1950~)は、日比谷高校中退→浪人→東大進学という 人生の転換点を学園紛争・安保闘争期にむかえている。ヘルメットかぶって、ゲバ棒で武装した学生たちは、同級生たちだった。いくら はやばやと運動の空間から撤退してしまったとはいえ、のちに「過激派」とよばれる活動家も友人のなかには、ふくまれていたそうだから、まさに 同時代の当事者そのものだった。だから、ふりかえったとき、「竹槍」だの「装飾性」だの、その「自衛」ぶりの風体を冷静にふりかえったときに、喜劇的な描写しかできないのだとおもう。

■しかし、こういった たとえは、やはり ものがたり づくりに かまけた、戯画化にすぎないとおもう。■ヘルメットや 角材が 本気で武装闘争をする気だったのかといわれても、そういった 物理的側面を、象徴化して解釈しきれたというのは、かなり あやしい。「反証」を列挙していく。

■(1) かれら学生運動家たちは、警察官などを殺傷する意図をもっていなかった。■いや、アメリカ政府の イヌとして ふるまう日本政府の動向を阻止するため、あるいは米国要人や米兵の上陸阻止をねらったが、実際には、それら権力の衛兵としての機動隊などと 衝突しただけだった。■しかし、たとえば“第二次羽田事件”(1967/11/12)ひとつとっても、「機動隊の壁を突破するために丸太を抱えて機動隊に突っ込んだ」とあるとおり、「竹槍」の「再演」のような、コドモじみた闘争ではなく、ラグビーのスクラムをコピーするかのような、武器をつかわない(殺傷を目的とせず、あくまで「突破」をはかる) 暴力をもちいていた。

■(2) かれらが 殺意にちかい 攻撃を意図するにいたったのは、「うちゲバ」という段階であろう。左派勢力内部での理論闘争・戦略戦術の対立に端を発した「内部抗争」の延長線上で、敵対勢力同士が感情的になり怨恨がらみの憎悪によるものだった(その意味では、攘夷論での路線闘争による、新撰組等のテロリズムの「再演」ではあるが)。■そして、そういった際には、「ゲバ棒」などではなく、鉄パイプや さきをとがらせたバールなど、あきらかに 重傷以上の打撃を敵対勢力にあたえるための「武器」をもちだした。
■(3) 三菱重工爆破事件や交番襲撃事件など、政治経済権力テロリズムを戦術として もちいるまで暴走をはじめた段階では、爆弾・銃器を入手し軍事演習をおこなうなど、とても「竹槍」の延長線上ではない、意識的な「未必の故意」の水準にたっていた。

■(4) 一方、ベトナム解放戦線のゲリラたちは、「竹槍」ではなく、中ソからの兵器援助を最大限に活用し、また 米軍から うばいとった兵器までも 戦力にくわえていった。■その際、かれらは「自衛」と「祖国防衛」のために、米兵を殺傷することと全然ためらわなかったはずだ。
■(5) 他方、日本の学生・活動家たちは、アメリカ大使館米軍基地に、テロリズムや軍事攻勢をかけることはしなかった(できなかった)。おそらく、物理的に無意味だっただろうが、その ムリを むこうみずにもやろうとした「攘夷」派の浪士、あるいは欧米列強の商人から大砲など近代兵器をかいいれて、攘夷を決行しようと砲撃をくわえた薩長両藩のような 気合も意図ももちあわせていなかった。
■(6) そして、それ自体は、なかば意識的な「敗北主義」ともいえるが、全否定はすべきでない。たとえば、平和運動の一環として、良心的な徴兵忌避=脱走をはかったアメリカ兵をかくまった、べ平連ベトナムに平和を!市民連合)が、いっさいの武装闘争をこころみなかったように、「うちゲバ」や「総括」といった、自滅的な近親憎悪をのぞくと、「ベトナム反戦」「反帝国主義闘争」という、殺傷を必要悪視しない、非暴力運動の側面がつねにつきまとっていた。■実際、「暴力学生」よばわりされた層に対して、「合法的」に「正当化された暴力」をふるいつづけたのは、警官隊であった。
■要は(1と矛盾するようだが)、なかば「敗北主義」的な姿勢が前提となっているがゆえに、「物理的・精神的両面から、『攘夷』など、できるはずもない」と、なかば あきらめていたのだとおもわれる。

■(7) しかし、同時に、これら「平和運動」は、自己正当化(=イデオロギー防衛機制)もあいまって、現実認識が ハンパにおわる宿命もおびていた。■なぜなら、米国政府の「イヌ」同然の政府要人などが、みずからの自尊心をいたくきずつける、「ぶざまで 卑怯な自己」の投影物として 反発をよんだことこそ、運動を基底でささえた 動機・士気だったからだ。帝国主義の「不沈空母」として、後方支援をになわさせる 屈辱・廉恥こそが、「阻止」闘争という次元にとどめた。だから、現実にベトナムへと出撃していく米軍の後方組織には、なんら実効力をもちえない、実質的には、アリバイ闘争的な示威運動にとどまるのは、宿命的な構図だった。■米軍で雇用されていた沖縄人労働者たちのように、虐殺の危険性を体感している空間では、そういったアリバイ的な戦闘ごっこは、ありなかったという現実と比較対照すべきだろう(唯一の例外は“コザ暴動”(1970年)だが、これとて、基地外の米軍車両を やきはらうだけで、対人的な暴力は徹底的にひかえられたし、基地内への突入は回避された。「虐殺」が、まっているのは、あきらかだったからだ)。■米軍基地にこそ せめいらなかったが、東京タワーの展望室を占拠するという手法で、日本人男性と在日アメリカ人を 人質にとった、富村順一氏のような決起(“東京タワー事件”=1970年)の方が、示威行為として、ずっと意味のあるものだっただろう(これは、日本政府にとっても、最大級の失態だったので、その政治的意義は、ひたかくしにされ、それを おもいおこせる層は、例外的少数となったが)。
■(8) 右翼と同様、左翼勢力も、全国にひろがる米軍基地になんら有効な打撃をくわええず、ましてや 米軍を 列島からたたきだす、などいった 大それた運動(「攘夷」)は、はじめから 不可能であると直感したうえでの、自暴自棄的、ないし自慰的な示威行動こそ、60年安保・70年安保の本質だったのだ。■ベトナム戦争に加担しているという やましさを 軽減するために、機動隊にうちすえられるという、マゾヒスティックな儀式だって、実にアリバイ的で自慰的なものでしかなかったんだから。■「平和運動」であり、「できるなら非暴力主義で」という理念・姿勢は、


■かくして、「内田先生、おみごと」と、絶賛したくなるような、うつくしい「ものがたり」にみえたが、実に、うさんくさい「茶番劇」のような気がする。■むしろ、同時代の当事者として、こうういったかたちでしか、ふりかえることができない点で、あきらかに冷静さをかいているようにしかみえない。そして、「あれから40年」をへたもなお、充分な心理的整理が完了していない知識人に、悲喜劇をみてしまう。

■「別に他の国の人たちは日本人のことをとりたてて「卑屈な国民」だと思ってはいなかっただろう」と、内田御大はおっしゃるが、そうだろうか? 「アメリカの「核の傘」の下で軍事的に安全になっても、「卑しい国の民」という刻印は消すことができない」という「現実」「事実」を、東アジア・東南アジア諸国の知的な層は、みんな 認識していたんじゃないか? ■米軍をおいだせないような、よわむし(=「卑屈」)、といった論理ではなく、アジア支配のために帝国主義を維持する米軍の後方支援を積極的ににない、それで経済成長をはかっったのに、 「かねもち」然として いばりちらす。…こういった、「自己欺瞞的」で、しかも「偽善性」に無自覚、ないしゴマ化しを平然とくりかえすような「卑劣」な連中として、戦前の帝国とは別種の、いやらしさを みせつけられて、うんざりしていたんじゃないか?
■だから、優秀な工業製品とか、定刻・高品質なサービスとか、清潔さ・治安といった次元では、「モデル」ではあっても、「あそこまで卑屈に対米追従をとおし、周辺諸国には卑劣なふるまいをくりかえす連中」といった、「あきれた」感が ずっと たえなかったんだとおもう。■そうかんがえれば、最近の わかい世代の「親日派」の登場をもって、「ようやく 誤解がとけた」「これで友好関係が前進する」なんて楽観視するのは、どうかとおもう。それは、日本人同様、歴史をまともにまなばない世代、祖父母世代から継承できなくなった世代がうまれただけであって、本質的な歴史的清算については、全然課題が放置されたままということを意味するのだから。

■いや、ベトナム人民のように リッパに「攘夷」をやりきれなかった、という、やましさ・はじらいというより、アリバイ的に機動隊を武装闘争ごっこに興じてしまった。しかも、かなり 本気で 革命運動をやれているような錯覚をおこしていて、実際、なんら 社会をかえることに成功しなかった。■それどころか、「パックス・アメリカーナ」の極東・東南アジアで、「小東亜共栄圏」構想の実演をゆるされたシナリオに、しぶしぶではなく、むしろ「経済大国ニッポン」などと よいしれ、ベトナム戦争はもちろん、公害病など さまざまな諸矛盾をわすれはてて経済競争に奔走してしまった。対米追従政権というほかない自民党を、準独裁体制≒擬制民主主義として、ささえつづけ、「安全保障」のなのもと 沖縄へとドンドン米軍基地を集中して“NIMBY”をきめこんで、はじない。…という一連の経緯=当事者性こそ、こういった ネジれた総括をうむんじゃないか?■東大をはじめとして、闘争ゴッコに興じた部分の大半は、企業戦士として高度経済成長後期(≒オイルショック以降)を中核として にない、バブル経済期には中間管理職などとして、マネー・ゲームに狂奔していたはずだよね(一部、「自己否定」を実践してしまった 悲劇的な層もいたけど、ごくごく例外的な存在でしょ?)。
■その意味では、70年安保世代の やましさの問題は、全然過去形ではなくて、現在完了進行形だ。敗戦時の植民地状況が、準植民地状況に「改善」されただけで、本質=「いやしさ」が ほんのすこし「洗練化」されて、みえづらくなっただけだ。

■もし、「団塊の世代」=同時代人として、うえのような水準で、「自己批判」したつもりになること、同世代よりも、きのきいた そして深刻な反省をしたような錯覚におちいっているなら、やはり「団塊の世代」の政治意識は、からきし ダメな「共同幻想」にすぎないとおもう。■こんなかたちで、40年後の世代に もうしおくる(インタビューにこたえたり、こういった文章をかいたり)なんてしたって、「無残な自画像」(=無自覚な自己正当化)という意味での一資料としてはともかく、なんらの継承にもならない。むしろ「真理省」(オーウェル『1984年』)的な意味での、「偽史」「偽アーカイブ」が またひとつ でっちあげられるだけで。
■がっかりした。もうすこし、上質な総括があるとおもっていたよ。
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テーマ : これでいいのか日本 - ジャンル : 政治・経済

タグ : ナショナリズムハイパー独裁真理省1984年

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コメント

わかりません

以前お世話になった市民運動や予備校の関係者から全学連等の話も聞き、
本やサイト、動画もみました。
しかし生まれたタイミングによってこの運動を体験していないため、
どのお話もシュールに聞こえたり、
何のためにやっているのか見えてこないものがあります。

『民族とは何か』

(関曠野・講談社現代新書)197ページより以下に引用す。

だがドグマの信奉から生じたロシア革命とは対照的に、明治維新は思想なき野心の産物だった。しかもこの無思想な維新なるものが、近代日本国家の出発点なのである。おそらくここに、多くの日本人が植民地化の脅威に対抗するために明治国家が作られたと信じている理由がある。国家の創設に根拠がなかったとは信じられない人々は、ありもしなかった植民地化の脅威という神話によって維新が残した空白を埋めるのである。

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